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ヴォー・グエン・ザップ

1.ベトナム戦争を指揮した、ヴォー・グエン・ザップという軍人・政治家がいます。  ウィキペディアで検索すると次のように出てきます。

『ベトナム共産党政治局員。  ベトナム人民軍総司令官(最終階級は大将)。  優れた軍事戦術家であったザップは、フランスの植民地支配の際、ディエンビエンフーの戦いによって、フランス領インドシナからベトナムを解放し、ベトナム人民軍の指導者としてアメリカ軍及び南ベトナム軍との戦いを指揮し、ベトナムを再統一する大きな原動力となった。  その名采配から、西側諸国からは「赤いナポレオン」と呼ばれ 、ベトナム人民からは「ベトナム救国の英雄」として、ホー・チ・ミンと共に、深い敬愛と尊敬を集めた。』


2.ナイキの創業者、フィル・ナイトが書いた『SHOE DOG』(東洋経済新報社)の中にヴォー・グエン・ザップに会ったときのことが書かれています。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①1997年には(ベトナムに)4つの工場を建てた。  ベトナム政府から国の外貨を生んだ上位5社のうちの1社として栄誉を与え祝福したいと言われた時は、もうこれはベトナムを訪問するしかないと思った。  

②大変な旅だった。  戦争が終わってから25年ぶりに戻り、敵対国の相手と握手するまで、どれほどベトナム戦争への憎悪が深かったのか自分でもわからない。

③話の途中で何か望むことはないか、せっかくの旅だから何か特別の記念になるようなことをしてあげたいと言われ、私は熱いものがこみ上げてきた。  わざわざいいですよと私は言った。  だが彼らは、ぜひと言ってきかない。

④それではと言って、私は(当時)86歳のヴォー・グエン・ザップという、ベトナムのマッカーサーに会いたいと言った。  日本、フランス、アメリカ、中国を1人で撃退した人だ。  彼らは驚いて沈黙した。  (中略)  5分後に彼らは戻ってきた。  明日、1時間ほどなら面会できますと言った。  (中略)

⑤ザップ将軍が部屋に入ってきた時、最初に気づいたのは彼の背丈だった。  この優れた兵士、テト部隊を結成した天才的な戦術家、何マイルも深く地下トンネルを計画した歴史の巨人が、私の肩までの背丈しかなかったのだ。  5フィート4インチ(約163センチ)くらいだ。

⑥そして質素な格好だ。  (マッカーサーのような)コーンパイプはザップには似合わない。  彼は私と同じように、ダークのビジネススーツを着ていたと思う。

⑦私と同じでその笑顔ははにかんでいて、本音が見えない。  だが、迫力があった。  偉大なコーチや偉大なビジネスリーダーなど、エリート中のエリートが持ち合わせる、輝かしい自信のようなものが見て取れた。  鏡を見ても私などからは見えてこないオーラだ。

⑧彼は私が聞きたいことがあるのを見越して、質問を待っていた。  私は簡単に「どうしてあそこまでのことができたのですか」と聞いた。

⑨彼の口元がゆがんでいるのが見えた。  笑顔だろうか?  それとも?  

⑩彼はしばらく考えて、こう答えた。  「ジャングルのことを知りつくしていたからね」』


3.警備員

万引きが後を絶たないスーパーが警備員を増員することになった。  応募してきた男に、さっそく面接が行われた。

「警備員の経験は?」  「20年のキャリアがあります。」
 
「体力に自信は?」  「こう見えても、柔道・空手の有段者です。」
 
「当店では、主に万引きの防止に力を注いでもらえますか?」  「はい、今まで警備した店では一件も万引きが発生していません。」
 
「それは頼もしいです。」  「私にお任せください。」
 
「ところで、以前はどちらの店にいらしたのですか?」  「グランドピアノの専門店です。」
                                                       
                                   (本郷孔洋先生のメルマガより)


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正確な情報

1.6月27日と8月27日のブログで、1945年に終わった太平洋戦争の敗因について書かれた本を紹介しました。  今回は『帝国軍人の弁明』(保坂正康著 筑摩選書)を取り上げます。  「第2章 堀栄三『大本営参謀の情報戦記』を読む」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①昭和陸軍の情報をうとんじる体質は、1944年10月の台湾沖航空戦を見ても充分に窺える。  この航空戦は(1941年12月の)真珠湾攻撃以来、まったく勝つことのできなかった日本軍が珍しく大戦果をあげたということで、国を挙げて旗行列を行った。

②「大本営発表」によると「台湾沖航空戦では、轟撃沈が空母10隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻、撃破は空母3隻、戦艦1隻、巡洋艦4隻、艦種不詳11隻」という大戦果である。  ところがこれがまったくの偽りであった。  空母など1隻も撃沈していなかった。  (中略)

③情報をうとんじる、あるいは正確な情報を求めるより、集団で容認した虚構をそれぞれが信じることで、安心する心理が生まれていたのである。  (中略)  50万人余りの日本軍将兵が死ぬレイテ決戦はまさに虚構の上に成り立っていたのである。』


2.1の『大本営参謀の情報戦記』(堀栄三著 文春文庫)も読みました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①情報は収集するや直ちに審査しなければならない。  こんなことは情報の初歩の常識である。  航空戦の場合はいったい、誰が、どこで、戦果を見ているのだろうか?  

②真珠湾攻撃のときは戦果の写真撮影があって、戦果の確認が一目瞭然であった。  その後の航空戦では、真珠湾のときのような戦果の確認が出来ていない。  (中略)

③航空戦の実相は、戦闘参加機以外のだれかが、冷静に写真その他で戦果を見届ける確認手段がない限り、誇大報告は避けられない。  極限に立たされた人間には、微妙な心理が働くものである。  戦術ばかりでなく、情報参謀にはそうした心理学的研究も必要であった。  (中略)

④米軍は常に戦果確認機をだして写真撮影するのが例になっているが、日本の海軍でも陸軍でもその方法は採られなかった。  これが国運を左右する結果を招いてしまったことは、将来とも肝に銘ずべきことであろう。  とにかく目で見ることは戦果確認に一番大事なことであった。』


3.空手の試合においても、自分と対戦相手の情報を正確に把握することが大切です。  試合での戦術は、正しい情報を前提として構築するものだからです。  自分を過大評価し、相手を過小評価してはいけません。  もちろん自分を過小評価し、相手を過大評価することも良くありません。  

極真の選手にとっては、さまざまな映像を見ることと同時に、機関紙である『ワールド空手』を読むことは必須だと思います。  海外勢を含め、多くのライバル選手の情報が載っているわけですから。

明日は城西カップです。  大会当日も、対戦予定選手の試合を見て、最新の情報を得ておくことは大事です。  選手の皆さんの健闘を祈ります。  

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お人好し

先週に続き、渡部昇一先生の本を取り上げます。  『人生の手引き書』(扶桑社新書)の「お人好しはマイナス要素だと思われがちだが、真逆である」の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①仕事をする上で、頭がキレるということも重要だが、その一方で、人柄の良さも絶対に欠かすことのできない要素である。  人柄のいい人はパッとした華々しさこそないけれど、長い間にだんだん周囲の人の信頼を得て、最終的にはかつがれてトップに立ってしまうということも少なくない。

②反対に、あいつはいつ裏切るかわからない、ちょっと汚いことをする、野心家で他人を蹴落とすことをなんとも思わない、というような人は、だんだんに周囲の信用を失って自然淘汰されてしまうものなのである。

③人柄の良さで成功した一番の好例は、豊臣秀吉だろう。  秀吉は、戦国時代には、珍しいほどのお人好しだったのだ。

④たとえば、織田信長が比叡山の焼き討ちを行ったときのことだ。  同じく信長の腹心で切れ者といわれた明智光秀らの武将が、僧侶をも皆殺しにせよという信長の命令に忠実に従ったのに対し、秀吉が担当していた香芳谷だけはやや寛大で、ここから多くの男女が逃れ出て、多少の宝物も持ち出されたのである。

⑤秀吉も恐ろしいほどの切れ者だったから、皆殺しにしようと思えばできたはずである。  しかし、一般の僧侶や男女を殺しても仕方がない。  それにもまして、秀吉は、元来は単純に人を殺すのが好きではない気質だった。  それが、秀吉の人柄だったのである。

⑥中国攻めのときもそうだ。  敵は皆殺しにせよという信長の命令にもかかわらず、秀吉は無害のものは殺したくないという姿勢を貫いた。

⑦このように無用な人殺しはしたくないということを、秀吉は何度も見せている。  すると、秀吉というのは、めったなことでは人を殺さない男だという評判が立つ。  九州があっという間に秀吉についたのは、こうした秀吉の人柄によるところが大きいと言っていい。

⑧戦国時代という時代背景を考えれば異常なほどだった人の良さが、秀吉を天下人にしたのである。』

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