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村上春樹さん

先週紹介した村上春樹さんの『職業としての小説家』の中に不思議な逸話がいくつか書かれていたので抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.国分寺でジャズ喫茶を経営していたころの話

①銀行に月々返済するお金がどうしても工面できなくて、夫婦でうつむきながら深夜の道を歩いていて、くちゃくちゃになったむき出しのお金を拾ったことがあります。  シンクロニシティーと言えばいいのか、何かの導きと言えばいいのか、不思議なことにきっちり必要としているお金でした。

②その翌日までに入金しないと不渡りを出すことになっていたので、まったく命拾いをしたようなものです(僕の人生にはなぜかときどきこういう不思議なことが起こります)。  本当は警察に届けなくてはいけなかったんだけど、そのときはきれいごとを言っているような余裕はとてもありませんでした。


2.小説を書こうと思ったときの話(国分寺の店が立ち退きを迫られ、千駄ヶ谷に店を移した後)

①1978年4月のよく晴れた日の午後に、僕は神宮球場に野球を見に行きました。  午後1時から始まるデー・ゲームです。  僕は当時からヤクルトファンで、神宮球場から近いところに住んでいたので、よく散歩がてらふらりと試合を見に行っていました。  (中略)

②1回の裏、広島の先発ピッチャーが第1球を投げると、(先頭打者)ヒルトンはそれをレフトにきれいにはじき返し、二塁打にしました。  バットがボールに当たる小気味の良い音が、神宮球場に響き渡りました。  ぱらぱらというまばらな拍手がまわりから起こりました。  僕はそのときに、何の脈絡もなく何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。  「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と。

③そのときの感覚を、僕はまだはっきり覚えています。  それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした。


3.「群像」の新人賞を取ったときの話

①「群像」の編集者から「村上さんの応募された小説が、新人賞の最終選考に残りました」という電話がかかってきたのは、春の日曜日の朝のことです。  神宮球場の開幕戦から1年近くが経ち、僕はすでに30歳の誕生日を迎えていました。  (中略)  

②その編集者の話によれば、僕のものも含めて全部で5篇の作品が最終選考に残ったということです。  「へえ」と思いました。  でも眠かったこともあって、あまり実感は湧かなかった。  僕は布団を出て顔を洗い、着替えて、妻と一緒に外に散歩に出ました。  

③明治通りの千駄ヶ谷小学校のそばを歩いていると、茂みの陰に1羽の伝書鳩が座り込んでいるのが見えました。  拾い上げてみると、どうやら翼に怪我をしているようです。  僕はその鳩を両手にそっと持ち、表参道の同潤会アパートメントの隣にある交番まで持って行きました。  そのあいだ傷ついた鳩は、僕の手の中で温かく、小さく震えていました。

④そのときに僕ははっと思ったのです。  僕は間違いなく「群像」の新人賞をとるだろうと。  そしてそのまま小説家になって、ある程度の成功を収めるだろうと。  すごく厚かましいみたいですが、僕はなぜかそう確信しました。  とてもありありと。  それは論理的というよりは、ほとんど直観に近いものでした。』

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実験と体験

7月26日のブログで取り上げた、本山博先生と渡部昇一先生との対談集『霊の研究 人生の探求』(致知出版社)の『第五章 生まれ変わりの真実・・・カルマの法則』から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.渡部・・・カルマということについて少しお聞きしたいと思います。  カルマというのは因果応報(いんがおうほう・・・人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ)といいますね。  これは死んだ人の霊魂が何代か経て甦(よみがえ)るということと考えていいのでしょうか。

本山・・・意味としては「因果応報」だけれど、ふつうは「業(ごう・・・前世の善悪の行為によって現世で受ける報い)」といいますね。


2.本山・・・①宗教で科学の実験に当たるのは体験することだと思います。  その事実を体験するか、体験しないかによって決まるんです。  科学だって仮説の状態で観察をする。  そしてその中にどうもひとつの法則がありそうだとなると、その法則を証明するために実験装置や道具をつくる。  そしてそれが証明されたら、一応、事実の法則として認めるわけですね。

②そういう科学の実験に当たるものが宗教においては体験です。  事実を実際に体験するしかない。  それを抜きにして、いろいろビジョンを立ててみても、それはただの神学にすぎない。  そういうのはいずれなくなるのだからどうでもいい。  今のところ仏教なら二千五百年、キリスト教なら二千年続いていますが、それがそのままずっと続くかというと、決してそうじゃないと思う。  必ず変わるはずです。  だけど事実は変わらない。

渡部・・・しかし私が知る限り、キリスト教で生まれ変わりを信じる人はいませんよ。  これは絶対ない。

本山・・・それは実際にそういうカルマと再生というものを見た上で信じないのか、見たことがないのに信じないのかが問題です。  見たことがないのに信じないと言ったって、これは「信じない」ではなくて「知らない」ということでしょう。  もし正直な人ならば、「知らない」と言うはずですよ。  自分はそういうのは見たことも体験したこともないから知らないと言えばいいけれど、信じないというのはまた別論ですね。

渡部・・・しかし、生まれ変わりの証明は難しいでしょう。  不可能と言ってもいい。  


3.本山・・・①ある人が生まれてくる場合に、個人のカルマが主になって生まれる場合もあるし、国のカルマを背負ってそれが中心になって生まれてくるときもあるし、それから家のカルマを存続させるために生まれてくる場合もあるし、あるいは地球のカルマがその人の生まれる原因になって生まれてくることもある。

②つまり、生まれてきたカルマによって働く場所が違うんですよ。  それぞれ自分の持った器に従って生きているわけだから、その器を超えられるように器の中で精一杯に働いて、働きそのものの中に融(と)け込んでしまうほど夢中になっているうちに自然にカルマは解けていきます。  そして、カルマが解けるから、さらに進歩できるんですよ。』


明日は昇級審査会です。  

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本山博先生『人生の探求』

本山博先生と渡部昇一先生との対談集『霊の研究 人生の探求』(致知出版社)を読みました。  本山先生については2009年10月7・8日のブログでも、稲盛和夫さんとの対談集『人間の本質』(PHP研究所)を取り上げたことがあります。  抜粋して紹介します。

『1.渡部・・・霊的な成長とか霊的な修養をするためには、人の役に立つ、自分の仕事を成就させるというほかに、どういうことがありますか。

本山・・・夢中になることですね。  自分を忘れて仕事になりきれるような人でないと仕事はできないです。

渡部・・・そのときに、霊的な成長があるんですか。

本山・・・それで自分がなくなったらね。  神様は、自分に枠があったら枠の中でそれが成り立つように動いてくださるけれど、枠がなくなったらいつでも神様のところに行けるんです。  だから自分を忘れるほど夢中になれる人は、ものができる人ですよ。  
 
 そういう人は、信仰はなくても、神様が何かわからなくても、人間の存在の小ささというものに触れられる。  そうすると、自然に何かを信じるようになるんです。

 だから、何も「神様、神様」とお祈りすればいいわけではない。  御利益(ごりやく)信仰(・・・御利益を求めて信仰すること)というのは、自分を持ったまま神様と取引しているから、霊的な成長は起きないですね。


2.渡部・・・砂漠の中で瞑想なんかしている聖人もいたわけですね。  瞑想しているだけでそれを(人に)説かなければ、あまり人の役に立たないわけですが、そういう人の霊魂はどうなのでしょうか。

本山・・・瞑想して本当に自分が瞑想になりきって、神様のほうをいつも向いて自分をすべて神様に任せていれば、砂漠であろうとどこでも同じですよ。

渡部・・・人の役に立とうなんてことは考えなくていいわけですか。

本山・・・自然に人の役に立つようになっているのですよ。  というのはね、人の役に立つというのは、何かをして役に立つのではなくてもいいわけです。  たとえば、机は「わしがみんなを支えているぞ」とはいわないと思うけれども、役に立っているでしょう。

 そういうふうにすべてを神様に任せて自分の役割を淡々と果たしていけば、必ず霊的成長が起きているんです。  一生懸命に自分のするべきことをする。  いつも真剣に取り組んでいれば、それでいい。  そういう心がけで生きていけばいいですよ。  そうすればこの世界でも成長できるし、霊性も高まるんですよ。』

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