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身体に覚えさせる

1.セ・パ両リーグ(ヤクルトと西武)で日本一となった“名将”広岡達郎さんが書かれた『広岡イズム』(ワニブックス)を読みました。  「理論は超越しなければいけない。」の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①理論を理解しただけで「できる」「わかった」と思うのは間違いです。  理論は超越しなければいけません。  そのために練習があります。  理論を頭で考えているうちは、何ごともうまくはなりません。  反復練習によって理論を身体に覚えさせてこそ、「わかった」「理解した」といえるのです。  野球の特守や特打もそのためにあります。

②特守は千本ノックとも呼ばれます。  始めはスタンドの目も意識して、かっこよく捕り、投げようとしますが、やがてフラフラになり、飛んでくる球を見るのがやっとになります。  球以外は何も見えなくなり、無我夢中でボールに飛びつくだけのくり返しになります。  そのときに余分な力が抜け、身体が本来の守備のあり方を覚えるのです。  基本とは頭で覚えるのではなく、汗とドロにまみれて身体に覚えさせてこそ身につくものです。

③特打も同じです。  始めは元氣ですし、周りによいところを見せようと力が入りますが、疲れてくると、やがて球だけしか見えなくなり、ただ来た球を打つだけになります。  この状況と境地に入ると、全身の余分な力が抜け、スコーン、スコーンとよい当たりが出始めます。  これが大事なのです。』

全日本大会前の朝練での、捌きの稽古も、反復回数が少なかったのかもしれないな~(笑)


2.以下は、久しぶりに本郷孔洋先生のメルマガからの引用です。

『号外

新聞売り場で一人の売り子が、大声で新聞の内容を叫びながら売っている。
 
「号外、号外、一日に48人の人が詐欺に引っかかった。」
 
「オイ、その新聞一部くれ。」
 
「はい、ありがとうございます。  さあ号外、号外、一日に49人の人が詐欺に引っかかった。」
                        
                                                (ジョーク集より)』

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弱くても勝てる 強くても負ける

『弱くても勝てる 強くても負ける』(石浦外喜義著 幻冬舎刊)を読みました。  著者は鳥取城北高校校長・相撲部総監督で、教え子の現役力士には照ノ富士、逸ノ城、貴ノ岩、石浦(著者の息子)、山口がいます。  本書から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①小学生レベルでの相撲は、体が大きいだけで勝っているケースも少なくないようです。  (中略)  それに対して、小学生から中学生を過ぎ、やっと相撲が取れるようになってからの高校生が伸びる率は極めて高く、それで私は、相撲はあまり早くからは芽が出ない競技だと思っているのです。  あの大鵬にしても、子どものころは小柄だったそうです。  (中略)

②一方、子どものころ、小さくて体格に恵まれなかった子どもは、勝つために技術を身につけます。  たとえば、白鵬が190センチ以上もあるのに、出し投げを打つことができるのは、体格に恵まれていないころ、そうした技術をしっかり身につけたからです。  

③鶴竜や日馬富士にしても、前みつを取ったり、出し投げを打ったり、相手の足を取ったり、いきなり腰を沈めて相手のふところに飛び込んだりと、白鵬同様、多彩な動きで相手を翻弄します。

④彼らは、いずれも入門時はもっと小さかったのです。  いろいろなことをやらなければ勝てないので、これだけの技を身につけ、大きくなってからもそれを駆使できるから強いのでしょう。

⑤高校生ぐらいの年齢になってから勝てるようになる人間は、概して、それまでは体も小さく、相撲も弱いのです。  それでも相撲が好きで、頑張って続けてきた子供が、18歳ぐらいから急に大きくなったときに強さを発揮するわけです。』

極真の少年部の試合でも、体格にまさる選手が有利になりがちです。  チーム城西の少年部の中にも、技術は優れているのに体格差が原因でなかなか入賞・優勝に手が届かない選手が、私が思いつくだけで何人もいます。  

また、小学・中学生時代になかなか勝てなくても、高校2・3年生ぐらいから強くなり、試合に勝てるようになったケースをこれまで何人も見てきました。      

国際親善大会後のブログ(4月17日)にも『「10年・20年の計」の強化でよいのだと思います。』と書きました。  大事なことは長期的な展望で、あきらめずに、コツコツと稽古を続けることだと思います。

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牛一歩

『 もう一息

 もう一息と言う処でくたばっては何事もものにならない

          八十二歳 実篤 』

何度かブログにも書きましたが、下高井戸道場に武者小路実篤先生が書かれた上のような額が掛けてあります。  1972年に新宿の紀伊國屋書店で購入したものです。  最初は自宅に飾っておいたのですが、1980年に代田橋で初めて常設道場を確保した時にそちらに移しました。

地図を眺めていたら、京王線の仙川駅近くに『実篤公園』というのを見つけました。  ネットで調べたら武者小路実篤先生の晩年の自宅が公園になっています。  敷地の中に『実篤記念館』があり、そこで三女の武者小路辰子さんが書いた『ほくろの呼鈴』(筑摩書房)を買ってきました。  本書から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.父の愛用の硯の一つに穴があいた。  いつも墨をすっている一ヵ所が貫かれてしまったのである。  硯に穴があくということは私は今まで聞いたことがなかった。  (画家の)中川一正小父様が「新潮」に、やはり「硯がこんな姿になったのを私は見たことがない」と書いて下さった。

2.①先だって、父のことを取材に実篤公園に見えた方たちがあって、頼まれて少しばかり話し合った。  仕事部屋の絵をかく机の上に、穴のあいた硯があり、父がどんなに勉強家だったかが、話題になった。  

②本当に父がどれほど熱心に絵をかいたことか、それはなかなか口で説明しきれないことだった。  どう言っても、父のあの熱意の半分も伝え切れないとい思った。  しかし、硯がすりへって穴があくほどだったという事実は、驚くべきことに違いない。  (中略)

③そんな時、その人がふっと私に問いかけたのだ。  「実篤先生は、のんきにしていらしたことはないのですか」  私は一瞬、あっけにとられた。  思いがけない質問だった。  実は父ほどのんきの名人いないとも思っていたからだ。  (中略)

④それではどう言ったものか・・・さてむずかしい・・・と私はとまどう。  (中略)  父は勉強家だった。  特に亡くなる前年、せまりくる老衰と闘って、ものを書く父の姿に、強く胸をつかれた。  本質的に父は驚くべき努力家で勉強家だった。  本当にすごいエネルギーだった。

⑤しかし、また本当に父をのんびりの名人とも思い込んでいるのだ。  それも私が生まれて以来からの記憶にかけて、信じていることだ。  (中略)  実に意欲的で、書きたくて仕方なくて、そそくさと取りかかる。  その姿は一生懸命で、ひたむきだった。  元気な子供が動き回らずにいられないようだ。  自由に拘束されず、のびのびと、したいことをしているのだ。

⑥「健康だったら、したいことがあって早く起きたくなる」と父は言っていた。  努力するということが、厭なことでなく、もっとも自然な姿だった。  無心の境地に遊ぶとも見えた。  本当にのんびりしている名人だったと、やはり思う。

3.①父は意外に、はにかみやのところがあった。  大変自信家にみられるけれど、いつも進歩したいと思っていたようだ。  それで以前のことは、かまっていられないで、昂然とみえるらしい。  (中略)

②「おれはまだあきらめないんだ」と言い、「もうじきものになると思っているんだ」とつけたした。  「それはそうね」と私は笑ってしまう。  内心あきれてしまっている。  正確な年は忘れたけれど、仙川時代だから晩年のことで、八十ほどだったかと思う。

③本当に八十過ぎても九十になっても、あきらめたくなかった人だった。  父の印に「牛一歩」というのがあって、これは「モウ一歩」と読むそうで、まったくいつもその気だった。』

ちなみに武者小路実篤先生は1976年4月9日、満90歳で亡くなられています。



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