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東日本大会・祝勝会・ビジョン

1.夏風邪にかかり、7月16日の夜に39度近くの熱を出しました。  結果として、翌日の東日本大会は欠席させていただきました。  関係者の皆さんにはご迷惑をおかけしました。  申し訳ありません。  


2.昨日は第6回世界ウェイト制大会と第34回ウェイト制大会の祝勝会が開かれました。  おかげさまで熱も下がったので、私も出席しました。  平日の夜にも関わらず、80名近くの皆さんに出席していただきました。  優勝した鎌田翔平・竹岡拓哉・亘和孝の三名とご家族の皆さん、おめでとうございます。  次は第49回全日本大会です。  チーム城西一丸となって、また稽古に励みましょう。


3.『世界史を創ったビジネスモデル』(野口悠紀雄著 新潮社)を読みました。  「第5章 IBMの成功と没落と再生」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①破綻の瀬戸際に追い詰められたIBMを立て直すべく登場したのが、ルイス・ガースナーだ。  彼は1993年から2002年までIBMのCEOを務め、同社を見事に再建した。

②ガースナーは、菓子メーカー、ナビスコのCEOからヘッドハントされた。  彼は、IBMの歴史で初めての「外部」の経営者だ。  コンピューターの専門的な知識はまったく持ち合わせていない。  (中略)

③ガースナーはまた、ビジョンを封印した。  最初の記者会見で、彼はつぎのように言ってのけた。  「わたしがいつIBMのビジョンを発表するか、さまざまな憶測が飛びかっている。  皆さんに申し上げたいのは、いま現在のIBMにもっとも必要ないもの、それがビジョンだということだ」

④「改革にもっとも必要なのはビジョンだ」と考えている多くの人にとって、彼のこの宣言は奇異に聞こえる。  しかし、ガースナーは、実現のための戦略の無い夢だけを描くことの空虚さを強調しているのだ。  

⑤彼はつぎのように言う。  「いま最優先すべきは収益性の回復だ」  「優先すべき二番目の課題は、顧客の維持・獲得の戦いに勝利することである・・・これもビジョンの問題ではない。  顧客に奉仕する人間の問題だ」

⑥ガースナーによれば、ビジョンを作るのは実に簡単で、「ベーブ・ルースがフェンスを指さしたのと変わらない」  「すぐれた戦略は大量の数量分析から始まる」。』


4.①3.⑥のベーブ・ルース(ニューヨーク・ヤンキース)の話は、1932年のワールドシリーズで記録した「予告ホームラン」の話です。  この年のヤンキースはシーズンで107勝47敗を記録しリーグ優勝、ワールドシリーズではシカゴ・カブスと対戦することになります。  

②ホームランが生まれたのはヤンキース連勝で迎えたシリーズの第3戦、4-4の同点に追いついた後の5回表に、外野フェンスを指さして打席に入ったルースの打球は外野を超えてホームランになったそうです。

③ちなみに、ガースナーの著書では次のような文章が続きます。  『過去二十年間に、ベーブ・ルースを真似てフェンスを指さした選手が何人いただろう。  そして、そのなかで一分以内にそこに本塁打を打った選手が、はたして何人いただろうか。』

④ベーブ・ルースと言っても、分からない人が多いかも(笑)。  でも最近は、早実の清宮幸太郎選手が和製ベーブ・ルースと言われ騒がれていますね。    

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第34回ウェイト制大会・全日本高校生大会

一昨日・昨日の大会に出場したチーム城西の選手についてコメントします。

1.全日本高校生大会
①山添麗王奈(16歳・17歳-65㎏級)・・・2回戦で延長戦判定負け。  相手の島田航平選手は準優勝しました。 島田選手の決勝戦は終了間近の後ろ廻し蹴りで逆転の一本負けでしたが、それまでは優位に進めており、実力はナンバーワンでした。  その選手とほぼ互角の内容なので、今後大いに期待が持てると思います。 

②酒井真由(15歳~17歳女子-50㎏級)・・・1回戦で本戦判定負け。  相手選手の突きの連打で押し込まれた印象です。  攻撃面では突きの間合いでの接近戦に強くなること、防御面では相手の突きに対して打たれ強くなること、の両方が課題です。  そのためにはウェイトトレーニングに本格的に取り組むことが必要です。    


2.第34回ウェイト制大会
①奥寺勇輝(軽量級)・・・1回戦シード・3回戦でロシア選手に延長戦判定負け。  延長に入ってからはパワーとスタミナの差が出ました。  ウェイトトレーニングでの体作りと徹底したスタミナ強化が望まれます。   私の隣で観戦されていた松井館長も称賛されていましたが、素晴らしい素質を持っています。  それを開花させるのは奥寺自身にかかっています。

②亘和孝(軽量級)・・・優勝。  準決勝一本勝ち・決勝技あり判定勝ちと、軽量級の中では突きの破壊力が抜きん出ていました。  昨年の大会では顔面殴打が多く見られ、結果として出場停止処分が下され、秋の全日本大会にはエントリーできませんでした。  今回の優勝である程度の名誉回復ができたと思います。  城西支部のウェイト制軽量級優勝者は第1回大会の大賀雅裕だけなので、33年ぶりのチャンピオン誕生となりました。

③竹岡拓哉(中量級)・・・優勝。  城西に移籍してくる以前の第28回大会以来の優勝です。  チーム城西に加わってからのウェイト制大会では第30回中量級準優勝・第31回軽重量級4位・第32回軽重量級準優勝・第33回軽重量級準優勝と安定しているので、今後は無差別全日本大会の優勝を目指して精進してもらいたいと思います。  今回は下段蹴りの威力が増したように見えました。  スクワットを中心とした下半身の強化で、その威力をより一層磨いていくべきです。 

④桑瀬隼弥(軽重量級)・・・2回戦で本戦判定負け。  相手の突きの連打に対して突きで対抗せずに、手を抱え込んで固まってしまうことが見受けられます。  ベンチプレスで150㎏を挙げる上半身のパワーがあるのですから、逆に自分から連打を打って相手を固まらせるぐらいでないといけません。  私自身は「芸術的で華麗な組手」を目指し指導していますが、極真の試合はある意味で「ルールのある、ど突きあい」の側面も持っています。  相手選手と心理的にも戦うわけですから、言葉悪く言えば「なめられたら、おしまい」です。  奥寺同様、素晴らしい素質を持っていながらそれを生かせていないのは残念です。

⑤石崎恋之介(軽重量級)・・・第4位。  昨年優勝したときと比べ、技の威力・ポジショニング・体捌きに難があったように感じました。  特に石塚選手との準決勝戦で相手の膝蹴りを正対してまともにもらってしまったのはいただけません。  膝蹴りに合わせて胸への突きを合わせていましたが、そうなるとリーチ勝負です。  恋之介の腕の方が長ければ崩せますが、相手の脚の方が長ければ膝蹴りが届いて突きは無力化されます。  膝蹴りが来ることは分かっているのですから、小さくサイドステップして横から下段廻し蹴りで軸足を蹴る・横からフック気味の胸への突きを合わせる、半身を切って受け流す・捌くなど考えられる戦法はいくつかあります。  もしかすると就職活動などで稽古量が減っていたことが影響したのかもしれませんが、時間が無いなら無いなりに頭を使って工夫することもできると思います。  要は本人のやる気次第です。

⑥吉村基(重量級)・・・1回戦本戦判定負け。  基より実績のある渡辺優作選手と対戦しましたが、それほど差があるようには見えませんでした。  17歳で180cm・95㎏と体格に恵まれており、運動神経も良さそうなので今後に期待します。  技・パワー・スタミナともに伸びしろがたくさんあります。  裏返すと、それだけ完成されていないということです。  今回の経験を活かし、来年のこの大会では優勝するよう、稽古量を積んでください。

いずれにしても、カズタカ・タケオカ、おめでと~。  選手・セコンド・応援の皆さん、お疲れさまでした。  

チーム城西の次のチャレンジは加賀健弘のオールアメリカン大会(6月24日)です。  皆さん、当日はニューヨークに向けて応援のエネルギーを送りましょう。  

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市村直樹

1.5月17日(水)の夕方、掌道で菊澤院長の治療を受けた帰りに電車に乗っていると、江口芳治から電話が入りました。  降りてからかけ直すと、「今朝から市村が危篤になり、お兄さんも北海道から出てきました。」とのことでした。  覚悟しつつ電話が鳴るのを気にかけていましたが、その夜も翌日も連絡はありません。

19日(金)の午前中、下高井戸道場で朝練の指導中に江口から電話があり、「今朝6時55分に亡くなりました。  葬儀は市村本人の希望により家族葬・密葬で行います。」と告げられました。  夕刻、再び連絡があり、「お兄さんからも、城西の仲間は家族のようなものだから、という話がありました。  そこで葬儀の連絡をしたいのですが、いいでしょうか。」と相談されました。  

私も参加した21日(日)の通夜・22日(月)の告別式には、市村とともに稽古した城西0Bの支部長・分支部長や、大賀雅裕・遠藤浩・岡本徹などの古い弟子が出席してくれました。

葬儀は無宗教葬の形で行われ、式の間中、市村が大好きだった矢沢永吉さんの曲が流れていました。  通夜の席で江口から、本人の意向で隠していたが2年前から悪性リンパ腫を患い治療を行っていた、旨の話しがありました。  


2.以下は総本部のホームページに書かれた市村の経歴です。   

『市村氏は、1966年10月19日、神奈川県川崎市生まれ。  高校卒業後の85年4月に東京城西支部代田橋道場に入門し、88年第20回全日本大会に初出場。  94年3月の第2回全関東大会で準優勝して浮上のきっかけを掴み、同年第26回全日本大会で3位入賞。  その後全日本大会は第28回~第30回、第32回、第34回の5大会でベスト8入賞の実績を挙げ、無差別世界大会は第6回~第9回まで4大会連続出場を果たした(4大会連続出場は日本選手歴代最多タイ記録)。  96年1月に城西下北沢支部を開設し、支部長としての活動をスタート。  支部道場で後進を育成しながら、一昨年の第32回全日本ウェイト制大会まで現役選手として活躍した。』


3.最近は会うたびに体が細くなっていくようで心配はしていましたが、まさかこんなにも早く永遠の別れが来ようとは思いませんでした。

2月22日に総本部道場で国際親善大会の組み合わせが行われ、私はそこで大会運営について話をすることになっていました。  午前11時から約1時間話をします。  まだ組み合わせが終わっていないようなので、そのまま続けるように言い、一人でエレベーターホールに向かうと、なぜか市村が小走りで来て見送ってくれました。

今思い返すと、最後のあいさつのつもりだったのかもしれません。  私は「市村、体調はどうだ?  道場関係で何か手伝うことがあったら、何でも言ってくれよ。」と話しかけ、市村の背中に手で軽く触れました。  随分痩せたな、というのが正直な感想でした。


4.3月25日の黒澤浩樹に続く、市村直樹の50歳という年齢での早すぎる死です。  田村悦宏と同期ですが、すぐに実績を出し始めた田村に対して、市村は最初は中々勝てませんでした。  ですから、26回大会で3位に入賞した時は、指導者として本当に嬉しかったことを覚えています。

大山総裁が亡くなって1年後の1995年に組織の分裂騒ぎが起きました。  当時市村が所属していた分支部の関係で、一時は我々の組織から離れたこともありました。  しかし、その後すぐに私の会社に来て、「もう一度お世話になりたいので、よろしくお願いします。」と言ってくれました。  とても感激したことを昨日のことのように思い出します。

市村の極真空手に対する関わり方、最後まで現役選手にこだわったその求道者としての姿勢には、教えられることがたくさんありました。  何より、市村の「城西」に対する、あるいは「城西の仲間」に対する思いを無駄にすることなく、私も精進していきたいと思います。

城西の20周年・30周年のパーティーのオープニングを飾ってくれた市村の「永ちゃん」が、来年の40周年で見られないと思うととても淋しい気持ちになります。  

今までに出席した葬儀の中で、一番泣いた葬儀でした。  ご冥福をお祈りいたします。  合掌







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