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道徳心

『あなたの人生の意味』(デイヴィッド・ブルックス 早川書房)を読みました。  1月22日のブログで「道徳」について取り上げましたが、本書でも「道徳心」が大きなテーマとなっています。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.①私は最近よく考えることがある。  人間の美徳には大きく分けて二つの種類があるのではないかということだ。  (中略)  私が二種類の美徳について考える上で助けになったのは、ジョセフ・ソロヴェイチックというユダヤ教の指導者が1965年に書いた『孤独な信仰の人』という本だ。  ソロヴェイチックによれば、私たち人間の本性には二つの対立する側面があるという。  

②それぞれを彼は、「アダムⅠ(ワン)」、「アダムⅡ(ツー)」と名づけた。  アダムⅠは私たちの中のキャリア志向で、野心的な面で、高い地位と勝利を求める。  アダムⅡは心の内に何らかの道徳的資質を持とうとし、善き行いをするだけでなく、善き存在であることも求める。

③私たちは今、アダムⅠばかりが優先され、アダムⅡが忘れられがちな社会に生きている。  成功をおさめ、称賛を得るための競争はあまりに熾烈なため、私たちはそれで消耗し尽くされてしまう。

④どこかで、自分は他人から認められること、褒められることばかりをしてきたのだと気づく。  愚かにも、他人を、その人の持つ価値ではなく、能力で見てしまっている。  自分の人格をどのようにして高めていくかという計画もない。  それがないと、内面の人生はもちろん、外から見た人生もいずれ、崩壊しかねない。

⑤正直に言おう。  私はこの本を、自分の心を救うために書いた。

2.①(前略)このように生きている人たちは、人間は生まれたままで、何もしなくても素晴らしい存在だなどとは考えていない。  明確に意識して努力を重ねない限り、良い人間にはなれないと自覚しているのだ。

②また、たとえ表面的に成功しているように見えても、内面の道徳的な向上がなければ、その成功が長続きしないことも知っている。  内面が道徳的に充実していないと、いずれ不祥事や、誰かの裏切りによって転落してしまう。  「アダムⅠ」は、結局は「アダムⅡ」に依存している。

3.①この何十年間かの間に私たちは、かっては持っていた道徳観を失い、かってはごく普通だった生き方も失った。  今の人間が過去に比べて極端にわがままになったわけでも、強欲になったわけでもないと思うが、一定の規範が失われたことで、自分の人格をどう形成すればいいのかはわかりにくくなったと思う。

②現代社会の大きな間違いは、「アダムⅠ」さえ成功すれば、人間は心から満足できると多くの人が信じていることだ。  アダムⅠの欲望は無限である。  何かを手に入れてもすぐに物足りなくなり、絶えず「もっと欲しい」と思い続ける。  アダムⅡを成長させない限り、本当の満足を得ることはできない。

4.①(ノーベル平和賞の)シュバイツァーは、理想主義者を(アフリカのジャングルの)病院職員として雇うことはなかった。  また、自分は世界に大きな貢献をしているのだとはっきり自覚して働くような人も雇わなかった。

②彼が雇いたかったのは「どんな時も常に同じように真面目に働く人、ただ自分に求められたことを淡々とこなす人。  『して当たり前』という気持ちで仕事をする人。  決して普通でない際立ったことをしようとは思っていない人である。  英雄になるつもりはなく、与えられた仕事を冷静に、しかし熱心にこなす。  そういう人だけが、世界を変えるような偉大な業績をあげることができる。」 

5.①人が未来のことを思う時には、幸せに生きている自分の姿を思い描くのが常である。  ところが面白いのは、人が過去を振り返って何が今の自分を作ったのかを考える時に思い出すのは、たいていは何か辛い出来事である。

②幸せな出来事を思い出す人は少ない。  大切なのは苦しみだったとわかることが多いのだ。  大半の人が幸せを目指していながら、苦しみによって育てられる。  そう感じる人が多い。

6.①(第二次世界大戦中の陸軍参謀総長)マーシャルが当時住んでいた軍の世界は違った。  その世界では、偉大な人間とは生まれるのではなく、作られるものだと信じられていた。  最終的に変えなくてはならないのは人間の内面だが、そのためにはまず、目に見えるところを変化させる必要があるとも考えられていた。  自分を律することができる人間になるには、日頃からそのための訓練をしなくてはならない。  

②真に礼儀正しい人になるには、まず表面的にでも礼儀正しい態度をとる訓練が必要だ。  真の勇気を身につけるには、まず自分の恐怖心に逆らって動く訓練をする。  真に沈着冷静な人間になるには、まず顔の表情だけでも常に変わらないよう訓練する。  最初に具体的な行動があって、はじめて内面が変わるのだ。

7.①マーシャルは現代の私たちとは大きく違う、組織優先の考え方を持つ人だった。  これは歴史というものを強く意識する考え方である。

②人生は誰もいない、何もない野原を歩いて行くのとは違う。  私たちは必ずいずれかの組織に属することになり、その組織に自分の身をある程度、預けることになる。  属する組織のほとんどは、私たちが生まれる前から大地に根を下ろすように存在しており、私たちが死んだあともおそらく長く変わらずに存在し続ける。

③どの組織も、すでに亡くなった人たちからの贈り物を受け取っている。  そして、組織に属した人たちは、それを存続させ、改善していく責任を負う。  より良い状態にして次の世代へと渡す責任があるのだ。  組織には必ず、昔から決まっている規則があり、属する人たちが果すべき義務がある。  また、何を良しとして、何を良しとしないかという基準もある。

8.①(現代の私たちは)「どうすれば人の上に立てるか」を教えられることはあっても、どういう仕事をし、どう生きるのが、道徳的に最も良いのかなど誰も教えない。  人は皆、ただひたすら人の称賛を求める機械のようになっている。  自分の人生の価値を、他人に褒められるかどうかでしか判断できなくなっている。

②こういう文化には大きな問題がある。  持てる能力を発揮することは大いに奨励されるが、その反面、道徳心を磨くことを勧める人は皆無に近くなってしまうのだ。  自分の人生をどの方向に進めれば意味のあるものにできるか、それを判断するには、どうしても道徳心を磨く必要があるはずだが、そのことはほとんど誰も言わない。』

私のブログのタイトルは『私の備忘録』です。  今回は書き写し、残しておきたい部分が多く、長文になりました。

ビル・ゲイツさんが「2015年に読んだ本ベスト6」のうちの筆頭に選んだことでも話題になりました。  私も「座右の書」として身近に置いておくつもりです。
    
今日の午後、西東京都大会が開催されます。  極真空手においては、日々の稽古や審査会・試合を通して「道徳心を磨く」ことも、重要な課題の一つです。

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教養と修養

若いころ、直木賞作家で経済評論家の邱永漢先生・日本将棋連盟会長で元名人の米長邦雄先生・上智大学教授の渡部昇一先生の本をよく読みました。  三人とも物事の本質を分かりやすく解説する名手です。

ところが、2012年の5月に邱先生が、12月には米長先生が相次いで亡くなられました。  一方、86歳になった渡部先生は『実践・快老生活』(PHP新書)を先月出版されました。  「修養」について書かれた項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①退職金をもらってから20年を超えたが、その間、まったく退屈ではなかった。  本を読む時間が増え、考える時間も在職時代よりかえって増えた。  (中略)  高齢者に適しているのは「人間学」だと思う。  「修養」といってもいいかもしれない。  人間学の中心になるのは古典や歴史だ。

②古典というものは何百年間も読み継がれてきたものだから、歳をとってからでも大いに参考になる。  (中略)  人生経験を積んだ高齢者こそ、古典を読めば、いろいろ考えさせられることが出てくる。

③何系統の古典でなければならないという決まりはない。  日本には儒教的な言葉も残っているし、仏教の言葉も残っている。  キリスト教の言葉もある。  神道の場合は言葉では語られていないけれども、神道的な考え方も残っている。  いずれも自分を磨くために役立つ。

④また、歴史に学ぶこともそうである。  組織の興亡を記録した歴史は、いうまでもなく人間学に直結する扉である。  歴史の中で繰り広げられる人間模様を知ることは、人間とはいかなるものかを理解するための、かけがえのないよすがとなる。

⑤ここで「教養」と「修養」の違いについて考えたい。  私には「教養」という言葉はどちらかというと青年向きの響きであるように感じられてならない。  (中略)  若い人に対しては「教養を高めよう」でいいかもしれないが、高齢者に「教養を高めよう」というのは、どうもしっくりこない。  年齢に関係なく自分を磨き、自分を高めることは大事だから、やはり「修養」や「人間学」という言葉を使うべきではないか。

⑥実際に、政治家やジャーナリストなど社会の先頭に立って活躍すべき人々の中でも、残念ながら「人間としてなっていない」と表現せざるをえない例を散見する。  変な言い訳や、取り繕い、責任回避などばかり重ねる人は、みっともないことこのうえない。

⑦学者やジャーナリストが政治家に転身した場合、さすがに「教養がない」とはいいがたい。  しかし、まったく人間を磨いた跡が見られないのだから「修養がなっていない」とはいいうるであろう。  そして、そちらのほうが致命的なのだとも。

⑧様々な読書や勉強を通じて、教養を高めることが大切なことはいうまでもない。  だが、それ以上に大事なのは、人としていかに生きるかという心構え、覚悟を知ることではなかろうか。

⑨そのために必要なのが「修養」であり、「人間学」なのである。  そしてそれは、歳を重ねてからもますます大切になってくる。  「修養」は不滅である。  人間学を学んで修養を積んでいる人は、いつまでも衰えない。』

20代の頃、渡部先生が書かれた『知的生活の方法』を読んで感銘を受けたことを思い出します。

渡部先生に直接お目にかかったことはありません。  著書を通してしか知りえませんが、二十数年人生の先を行かれる渡部先生のような存在は、私にとってはとても貴重です。

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幸福

1.『鋼のメンタル』(百田尚樹著 新潮新書)を読みました。  幸福について書かれている部分から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①人類は誕生以来、凄まじく過酷な環境で生きてきました。  飢餓、疫病、戦争は常に身近にあり、しかも生死に直結する恐ろしいものでした。  つい百五十年ほど前の江戸時代には、飢饉になると一挙に何十万もの人が飢えて死んだのです。

②今なら抗生物質や手術で治せる病も、最近までその多くが治療法がありませんでした。  盲腸でさえ命取りの病気でした。  足を骨折すれば一生障碍者の可能性が高いし、白内障になればほとんど失明に近い状態でした。

③近代に入ってさえ、七十年前は大戦争がありました。  多くの日本人は毎日、空襲に遭っていたのです。  嘘のような話ですが、夜、寝ていると、空から爆弾が降ってくる中で暮らしていたのです。  空襲で命を失った人は八十万人にものぼります。  地獄の戦場で命を失った人は二百三十万人もいたのです。

④幸いにして現代の日本人は、戦争や飢餓とは無縁の生活を送っています。  病気も医療の発達でかなり克服されました。  こんな幸福な国民があるでしょうか。  人類が何万年も苦しんできた三つの厄災から、ほぼ完全に逃れることができたのです。  

⑤さらに言えば、奴隷制度もなく、人身売買もありません。  私には、現代の日本は人類が何万年も追い求めてきた「地上の楽園」を実現させた世界のように思えます。  にもかかわらず、現代人を見ていると、少しも幸福そうに見えないのです。

(中略)

⑥日本人はこんなに素晴らしい環境に暮らしていて、自分を少しも幸福と思っていないのです。  これは結局のところ、私たちが自分の幸福を常に他人と比べてばかりいるからにほかなりません。

⑦そろそろ、そういうことはやめにしませんか。  幸福の基準を自分で持とうではありませんか。  それが出来た人は幸福を掴める人になれると信じています。』


2.昨日、『世界史の誕生』(岡田英弘著 ちくま文庫)を読んでいたら、今から二千年前の中国の記述がありました。  これも抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①紀元二年の統計では、中国の人口は約六千万人であったが、内乱が続き、後漢の洪武帝が紀元三十七年に中国の統一を回復したときには、約一千五百万人しか生き残っていなかった。  (中略)

②後漢の中国は繁栄して、百五十六年の統計では人口が五千万人を超えたが、百八十五年の「黄巾の乱」を始めとする内乱・内戦が半世紀も続いた結果、中国の人口はわずかに四百万人台に激減し、華北の平原では住民はほとんど絶滅した。

③生き残りの中国人のうち、二百数十万人が魏の曹操の配下に、百数十万人は呉の孫権の配下に、百万人足らずは蜀の劉備の配下に、それぞれ集まった。  これが三国時代の中国の実状である。』

①の紀元1世紀初頭の人口はわずか三十五年間で四分の一に、②の紀元2世紀末の人口は五十年間で十分の一以下に激減したわけです。  これを見ても、今の日本に暮らしていることがいかに幸せか分かります。

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