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成功・幸福感・幸福

『成功ではなく、幸福について語ろう』(岸見一郎著 幻冬舎)を読みました。  「第1章 成功と幸福」から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.幸福感と幸福

①(戦前の哲学者)三木清は幸福感と幸福は違うといっています。  例えば、薬を使ったり、あるいは、お酒を飲んで酩酊状態に陥り、気分がよくなるのは、幸福ではなく幸福感です。

②世の中のことを考えても、非常に耳に心地のよいスローガンを声高に叫ぶ人がいます。  皆で、守り立てようと盛り上がる。  そういう時、高揚感、幸福感がありますが、はたしてそういうものが幸福といえるのかというとこれも疑わしい。

③たしかに、その時は気持ちよかったけれども、後で考えたら本当にそれでよかったのだろうかと思うことがあります。  そんな高揚感に浸っている間に、世の中が自分の思ってもいない方向に進むということはよくあります。  ですから、幸福と幸福感とはまったく違うということを知っていなければなりません。


2.成功と幸福

①三木は、「成功と幸福を、不成功と不幸を同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった」といっています。  

②たしかに、そのあたりのところを私たちは無反省に受け入れていて、例えば、よい学校に入ってよい会社に入り、裕福になることが幸福だと考える人がいますが、三木はそれは成功であって、幸福ではないといっているのです。

③何が違うかというと、まず、幸福は各自においてオリジナルなもので、質的なものです。  他方、成功は一般的なもの、量的なものです。

④幸福は各自においてオリジナルなものであるというのは、幸福はその人だけに当てはまるのであり、その人にとっては幸福であることでも、他の人にとっては、幸福であるとは限らないということです。  (中略)

⑤二つ目は、幸福は存在に関わり、成功は過程に関わるということです。  三木によれば、成功は進歩と同じく直線的な向上として考えられます。  他方、幸福には本来、進歩というものがないことを指摘しています。

⑥幸福は存在だというのです。  過程ではありません。  今をこうしてここで生きていることが、そのままで幸福であるという意味です。  どういうことかというと、幸福であるために何かを達成しなくてもいいということです。

⑦しかし、成功はそうではありません。  よい学校に入らないといけない。  そして、よい会社に入らないといけない。  そういうことを達成しなければ成功したとはいえないと考え、成功と幸福を同一視している人にとっては、成功していない今は幸福ではないことになるわけです。  

⑧しかし、人は何かを経験したから幸福になるのではありません。  逆に、何かを経験したから不幸になるものでもありません。  幸福については「なる」という言葉は使えないのです。  つまり、私たちは幸福に「なる」のではなく、幸福で「ある」のです。  (中略)

⑨目標を達成したら幸福になれると思っている人がある目標を達成したら、その目標を達成した途端に、また新しい目標を作り出します。  蜃気楼のように、いつまで経っても幸福に到達することはできません。  そのような人は幸福を成功と混同しているのです。』

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正しいことを言うときは

2月12日のブログで『「正義を語るとツキが落ちる」というのは私の信条の一つです。』と書きました。  今日は『ほどよく距離を置きなさい』(湯川久子著 サンマーク出版)の「正しいことを言うときは、ほんの少しひかえめに」の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。  著者は、90歳の今も現役で活躍されている弁護士です。

『①詩人の吉野弘さんの『祝婚歌』をご存知でしょうか。  夫婦円満の秘訣が詰まった詩なのですが、生きる指針のようにも思えて、私がとても大切にしている詩です。  なかでも、一番好きな節があります。

「正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい」

②法律相談にいらっしゃる方の中には、弁護士に聞けば法律に基づいた《正しいこと》 《正しくないこと》が明らかになり、勝ち負けの判断をしてもらえると思っている方もいらっしゃいますが、人間関係のもつれにおいて、正しさの追求は、解決を生みません。

③なぜなら、人の心において、正しさは人の数だけ存在し、真実も、その正しさの定規によって、人それぞれ違って見えるからです。(中略)

④また、明らかに自分が正しくて、相手が間違っているということがあったとしても、相手を責め、糾弾しても、何の解決にもならないのです。

⑤ものごとのとらえ方は千差万別。  夫婦であろうと、親子であろうと、それを心に留めておくと、人間関係が少しやわらかくなる気がします。

正しさを追求していると、解決から離れていくことがある・・・「正しさ」こそ、人を傷つけやすいから』


明日は内部試合です。  

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運・鈍・根

昨年7月に亡くなられた渡部昇一先生の著書はこのブログで何冊も取り上げています。  今回は『思考の方法』(海竜社)から、「不器用さは、成功と失敗の分かれ道ではない」の項を、番号を付けて紹介します。

『①会社でも学校でも、何かと器用に立ち回る人というのはいる。  社内で大規模な異動があると小耳に挟めば、首尾よく行きたい部署の上司に取り入る、マスコミ関係に就職したければ、マスコミ業界に通じている教授のゼミに入ってコネクションづくりに励む、などである。

②こうやって書いてみると、まるで彼らがずる賢いようだが、私はそういうやり方を非難しているわけではない。  自分の中で目指すものがあり、それに向かって努力しているのだから、それはそれで、成功するための一つの立派な方法だと思う。

③ただ、ふとわが身を振り返ってみると、私はそういう器用さはまったく持ち合わせていなかったとつくづく思う。  そして、器用か不器用かは、成功するかどうかにそれほど深く関係していいないと感じるのだ。

④よく、成功の秘訣は「運・鈍・根」にあるといわれる。  「運」は運がよいこと、「鈍」は軽々しく動かないこと、「根」は根気よくやること、だが、私の場合は「鈍」が強かったのではないかと思う。  と言うより、動こうにも動けなかったと言ったほうが正しい。

⑤山形は鶴岡の田舎からポンと東京へ出てきたわけだから、世間的なことはまるで知らなかった。  アメリカ留学ができなかったときも悔しいのは悔しいのだが、器用に立ち回ることができないから、「まあ、このまま頑張って勉強を続けるかな」ということぐらいしか考えつかなかった。

⑥おそらく器用な人ならば、ここでいろいろと動き回るのだろう。  教授にかけ合ってほかに留学の道を探るかもしれないし、研究者という道にさっさと見切りをつけ、大企業就職を目指すようになるかもしれない。  そういうことをした人を私はたくさん見てきたが、うまくいった例は稀のようである。

⑦しかし、結果として私は、「鈍」と構えていたことにより、アメリカ留学に勝る(ドイツとイギリスへの)留学の機会を得ることができた。  器用に動き回っていたらどうなっていたかなど、今さらわかるべくもないが、少なくとも、器用に立ち回らなくてもチャンスを掴むことができたことは事実だ。

⑧このように、頭がよく、悧巧に動き回れる人だけが成功するわけではないとは、私の経験からくる実感なのである。』

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