2008年02月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年04月

春風駘蕩

1.昨日・今日と東京は、残念ながら雨模様ですが、咲いている桜を見ると、なんとなく、のどかな気分になります。

2.春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)という言葉があります。  辞書で引くと、次のように出ています。

 広辞苑・・・春風がのどかにふくさま。  転じて、性格・態度がのんびりしているさま。

 大辞林・・・①春風がそよそよと快く吹くさま。  ②人柄の温和なさま。  

3.以前にも紹介した、携帯サイト 『 相田みつをの心 今日のことば 』 の今日の配信を紹介します。

 『   声

  あなたの声を

  電話で聞いた

     だけで

   その日一日

    こころが

     なごむ

  理屈じゃねんだよ

      なあ    』

4.相田みつを美術館館長・相田一人さんの解説の一部です。

 『 「 ・・その日一日こころがなごむ・・ 」

 反対に、 「 あなたの声を聞いただけで、その日一日気が滅入る 」 そういうこともありますね。 』

5.できれば、前者でありたいですね ( 笑 ) 。 

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人間万事塞翁が馬

1.人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)とは、人生の禍福・幸不幸は、変転して定まりないものである、というたとえ話です。  中国の古い書物 「 淮南子(えなんじ) 」 に書かれています。

2. 「 人間(じんかん) 」 とは、人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。  「 塞翁 」 というのは、城塞(じょうさい)に住んでいる 「 翁(おきな)=老人 」 という意味です。

3.次のような内容です。

①中国の北の方に、占いの上手な老人が住んでいました。  北には、胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。

②ある時、老人の馬が、北の胡の国のほうに、逃げていってしまいました。  この地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので、近所の人々は気の毒がって、老人をなぐさめに行きました。  ところが老人は、残念がっている様子もなく言いました。

 「 このことが幸福にならないとも限らないよ。 」

③しばらく経ったある日、逃げ出した馬が、胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。  近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。

 「 このことが禍(わざわい)にならないとも限らないよ。 」

④しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて、足の骨を折ってしまいました。  近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。

 「 このことが幸福にならないとも限らないよ。 」

⑤1年経ったころ、胡の人たちが城塞に攻め入ってきました。  城塞近くの若者は、すべて戦いに行きました。  何とか、胡から守ることはできましたが、若者の多くは戦死してしまいました。

 ところが、老人の息子は、足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。

4.つまり、 「 城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと人生を変化させた。  禍福というのは、まったく予測できないものである。 」 という内容です。

 私自身の人生を振り返って見たとき、ある時点でアンラッキーだと思ったことがラッキーなことに結びついたことも、その逆も、両方あります。

 身に降りかかる運命を、いちいち評価せず、ただ淡々と生きていくのが一番ですね。

 東京では、桜が満開になったようです。  よい週末を。




 
 

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(5)昭和53年 第10回大会

1.常設の道場でなく、練習環境としては、必ずしも良くなかったと思います。

 しかし、劇画 『 空手バカ一代 』 の影響もあり、入会者は順調に増えていきました。

2.昭和53年の9月に入って、会員募集のポスターも刷り上りました。  会計士試験の受験仲間や、新しい道場生と一緒に、何台かの車で近隣に貼って回りました。

 小田急線の代々木上原駅の、高架下に貼ったポスターを、駅からの連絡で、はがしに行ったりもしました。

3.9月末に、公認会計士第2次試験の、合格発表がありました。  幸運にも、合格者名簿の中に、自分の名前を見つけることができました。

 結果的に、道場で教えながら、受験勉強をする必要がなくなりました。

4.7月の本試験の後、道場スタートの準備と平行して、11月の第10回全日本大会に出場するための、トレーニングを開始しました。

 前年の第9回大会後、受験勉強に入り、正味3ヵ月間しかありません。  稽古不足であることは否(いな)めず、2回戦で負けてしまいました。

5.道場生を持ち、指導する立場に立って、初めての試合だったので、ショックでした。 

 でも、「 指導者の立場 」 と 「 選手の立場 」 は別物と割り切ることにしました。  そうでないと、結果が怖くて試合に出れなくなります。

6.3月21日のブログで書いた、芦原師範に 「 山田、組手をむずかしく考えすぎなんじゃないか。 」 とアドバイスしていただいたのは、このとき負けた試合会場でのことです。

 受験勉強で、稽古時間が取れないため、頭の中で理屈をこねていただけだったのかも知れません。

 空手修行において、頭で考えることは、もちろん大切です。  

 しかし、それを身体に落とし込むために、反復することは、さらに重要です。  そのことを、芦原師範に指摘されたのだと思います。 

 

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満足・感動・感謝

1.3月22日の日経新聞の、交遊抄(こうゆうしょう)は、楽天野球団オーナーの島田亨さんが書かれていました。  

2.内容は 『 牛角 』 で有名な、レックス・ホールディングスの西山会長との会話です。  紹介します。

 『 東京都内の焼鳥屋で、一杯やりながらの相談だった。  その席で、不思議な謎(なぞ)かけをされた。

 「 どこかの店で、食事をしたりするとき、期待値(きたいち)ってあるじゃないですか。  期待値通りなら、お客さんは満足するでしょうが、それ以上のサービスを受けたら、どうなると思います。 」

 私が答えに詰まると、 「 感動するんです。 」 と教えてくれた。

 続けて、 「 期待値をもっと、もっと上回ると、どうなると思います。 」 と笑みを浮かべながら、尋(たず)ねてきた。

 頭をひねっていると、 「 感謝されるんです。 」

 そして 「 期待値を下回ると不満なのは当然ですが、さらに下回ると、お客にとっても、お店にとっても悲劇です。 」 と諭(さと)してくれた。 』

3.サービスでも商品でも、最低レベルから最高レベルまで、レベルが上がるごとに、お客さんの感じ方は次のように変化するというのです。

 「 悲劇→不満→満足→感動→感謝 」 

4.ビジネスでお金を受け取れば、感謝するのは、当然、お金を受け取る側です。  でも、最高レベルのものを提供したとき、お金を支払うお客さんが 「 感謝する 」 ということが起こるのですね。

 願わくば、道場生から 「 感謝 」 される城西支部になりますように。

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父のこと

1.私の父は、大正13年10月22日に、長野県岡谷市で生まれました。

 祖父は開業医でしたが、父が5歳のときに亡くなり、祖母の手によって、弟2人とともに育てられました。

2.長野県諏訪中学校 ( 現在の諏訪清陵高校 ) から、陸軍士官学校に進み、卒業の年に終戦を迎えました。

 戦後は、アルバイトをしながら、中央大学に通い、卒業後は、日興証券 ( 現在の日興コーディアル証券 ) に就職し、定年まで勤め上げました。

 20年ほど前に、道場の事務局を手伝っていたことがあるので、そのころいた人は知っていると思います。

3.手元に 『 私の太平洋戦争 』 という、父の自筆の原稿があります。  私が中学か高校のとき、先生から出された課題で、父に書いてもらったものだと思います。

 400字詰め原稿用紙で12枚ですが、 「 あとがき 」 として、父の雑感が6項目書いてあります。  その最後の項目を紹介します。

 『 私が、軍国主義のお先棒(さきぼう)をかついで ( 当時、何も分からなかった ) 、陸軍士官学校に入ったことは、後年、種々批判もあろう。  

 しかし、当時、夢中で青春を賭けたことは、決して無意味ではなかった。  

 というのは、青春時代は何でもよいから、精魂こめて、打ち込むべき時であると思うから。  と同時に、早くに、自主独立の気概(きがい)を養い、持つべきであると思うから。 』

4.3月21日(金)、21時57分に、腎不全で、父が亡くなりました。  18日(火)の昼まで元気だったことを思うと、ちょっと不思議な気持ちです。  

 でも、私の理想とする 「 ピンピンコロリ 」 だったわけで、いい死に方だったと思います。  83歳でした。

5. 『 高峰院法道日順居士 』 。  練馬の本照時のご住職に、すばらしい戒名を付けていただきました。
 
 月曜日・火曜日は通夜・告別式です。  水曜日に、ブログでお目にかかります。

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芦原英幸師範

1. 『 芦原英幸伝 我が父、その魂 』 ( 芦原英典・小島一志著 新潮社刊 ) を読みました。

2.小島さんとは付き合いが古く、過去に、空手の技術書も共著の形で、出版しています。  ご子息の大志君も、昨年から立教大学で、城西支部が管轄する同好会をスタートさせています。

3.私が入門した昭和46年当時、芦原師範は 「 極真会館愛媛県支部長 」 をされており、総本部道場にはいらっしゃいませんでした。  ただ、私は劇画の 「 空手バカ一代 」 を読んで極真会館に入門したので、当然、お名前は知っていました。

4.私が茶帯のころ、上京された芦原師範を、何度かお見かけしました。

 今で言う 「 イケメン 」 で、数々の武勇伝が響き渡っていた芦原師範は、私にとっても、あこがれの師範でした。
 
5.初めて声をかけていただいたのは、昭和48年の第5回大会の会場です。  直前の道場稽古で、鼻骨を骨折したため、トーナメント表に名前が出ているのに、出場しなかったのです。

 芦原師範に聞かれたので 「 鼻骨を骨折しました。 」 と答えると、 「 俺なんか何度も鼻の骨を折っているよ。 」  といって、自分の鼻骨を指で押さえたり、ひねったりされていました。

 その後は、出場した大会会場で、何度も声をかけていただきました。  試合に負けた場内で、 「 山田、組手をむずかしく考えすぎなんじゃないか。 」 とアドバイスをいただいたこともあります。 

6.私が支部長になった昭和53年当時は、まさに総本部道場の全盛時代でした。  その中にあって、二宮城光、中山猛夫といった、トップクラスの選手を輩出されており、指導者としても目標でした。

7.芦原師範は、昭和55年、極真会館を離れ、 「 芦原会館 」 を設立されました。

 その後は、残念ながら、お付き合いができませんでした。

8.大山総裁が亡くなられた翌年の1995年、50歳の若さで亡くなられました。  本に詳しく書かれていますが、ALS ( 筋萎縮性側索硬化症 ) という、10万人に2人という発症率の難病だそうです。

 ご冥福を、お祈りいたします ( 合掌 ) 。

 良い週末を。
 

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(4)昭和53年 一番弟子入会

1.昭和53年8月26日が、初稽古の日でした。  私を含めて、4人で稽古しました。

2.9月19日に、初めて知人以外の入会者が、稽古場所を訪ねて来ました。  菊澤俊です。  会員番号は10番でした。  

 まだ、ポスターが出来上がっていないので、道場生募集の告知ができていませんでした。  菊澤は、総本部道場に問い合わせをして、やって来たのです。  

 ですから、菊澤が、私の友人以外での本当の意味での、一番弟子ということになります。 菊澤はその後、初段を取り、現在は、大阪で整体関係の仕事についています。  

 そして、菊澤俊の弟が後に入会する、菊澤政夫です。  現在、私がお世話になっている、掌道鍼灸整骨院の菊澤院長です。

3.手許に、当時の入会記録があります。  これを見ると、現在、支部長になっているようなメンバーも、このころ入会しています。

・昭和54年4月9日  会員番号106番  中江辰巳 ( 極真会館埼玉県西支部長 )

・昭和54年6月3日  会員番号131番  鴨志田裕寿 ( 極真会館茨城県常総支部長 )

・昭和54年6月30日  会員番号149番  大賀雅裕 ( J-NETWORK代表 )

・昭和55年8月13日  会員番号365番  五来克仁 ( 極真会館ニューヨーク支部長 )

・昭和56年4月1日  会員番号495番  桜沢正大 ( 極真会館横須賀支部長 )

・昭和56年12月1日  会員番号713番  内山武盛 ( 極真会館宮崎支部長 ) 

4.後から知ったのですが、プロレスラーの蝶野正洋さんも、昭和56年6月3日に入会されています。  17歳の高校生で、会員番号は581番です。

 明日は春分の日です。  よい休日を。

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内藤大助選手

1.ボクシングの世界フライ級チャンピオン、内藤大助選手の書いた 『 いじめられっ子のチャンピオンベルト 』 ( 講談社刊 ) を読みました。

2.北海道生まれの内藤選手は、中学2年・3年の2年間、体が小さかったこともあり、胃潰瘍(いかいよう)になるほどの、いじめにあったそうです。

 そんな内藤選手が、強くなりたいためにボクシングを始め、世界チャンピオンになるまでがメインテーマです。

3.ボクシングを始めようと思った動機について、書かれた部分を紹介します。

 『 実は、高校生のとき遊びにいった海で、中学時代にいじめられていた不良に偶然会ってしまい、ボコボコにされたことがあったのだ。  

 あのときは、高校の友だちが一緒だったので、そんな姿を見られたことがすごく恥ずかしく、殴られている最中は、このまま海に沈められるんじゃないかと、本当に怖かった。  ( 中略 )

 でも、ケンカに強くなれば、そうしたいじめにも立ち向かえ、あいつらに負けないかもしれない。  強くなって、自分をいじめた同級生を見返したい。 』

4.3回目の挑戦で、初めて世界チャンピオンになった試合の、最終12ラウンド前の記述です。

 『 これまでの僕だったら、10、11、12ラウンドとスタミナ切れで、このままジリ貧になって、終わってしまただろう。 

 「 絶対に勝ちます 」 なんて、口が裂けても言えない。  だけど、僕を応援してくれる人たちの気持ちを、僕は裏切ることはできない。  

 自分を限界まで追い込んで、やるだけやってやる。  試合を捨てること、試合を諦めること、絶対にそれだけはしない。  

 オレの命懸けの試合だ。  とことんやってやるから、見ててくれ! 』

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(3)昭和53年 支部道場スタート

1.昭和53年1月26日、大山総裁から、極真会館東京城西支部長の認可状をいただきました。

2.当初、大山総裁からは、東京の 「 蒲田(かまた) 」 で、道場をオープンするように言われました。  

 当時、私の住まいは、東京都田無市 ( 現在の西東京市 ) でした。  そこで、通いやすい世田谷区や杉並区あたりに、道場を持ちたい旨、大山総裁にお願いした経緯があります。

 もし、蒲田でオープンしていたら、私は東京城南支部長になっていたはずです。

3.これで、すぐにでも 「 道場スタ-ト 」 となるべきなのでしょうが、私の場合は違っていました。  というのは、公認会計士2次試験の受験が控えていたからです。

 とりあえず、7月の本試験に向けての勉強、そのあと道場の準備ということにしました。

4.公認会計士2次試験は、3日間で、7科目の試験が行われるのですが、7月後半に、無事試験を終えることができました。  前年は、直前に体調を崩したりしたのですが、この年はそういったこともなく、順調に受験できました。

5.8月からは、道場のオープンに向けての、準備開始です。  まず、場所の確保です。  親のすねかじりで、貯金などあるわけもありません。  公共施設のように、時間貸しをしてもらえるところを、探さなければなりません。

 いろいろ歩いてみたのですが、公共施設も、すでに他の団体でいっぱいだったりして、なかなか見つかりませんでした。

 結局、小田急線の参宮橋にある 「 オリンピック記念青少年総合センター 」 の地下の体育スペースを、土・日・月曜日の夜、貸していただけるようになりました。 「 オリンピック記念青少年総合センター 」 は1964年の東京オリンピックの選手村のあとです。

6.地下のスペースの半分を借りるのですが、残りの半分では、レスリングやアクションクラブや体操の団体が練習していました。  また、床がピータイルで、汗で滑りやすく、体操のマットを並べて、その上で稽古しました。

7.最初は、ポスターの印刷が間に合わず、入会者もいません。  受験勉強仲間がおもしろがって、稽古に参加してくれていました。  

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目標の設定

1.目標を設定する場合の、レベルについての話です。  

 よく言われるのは、低すぎてもダメだし、とても達成できないようでもダメ、ということです。  つまり、頑張れば、なんとか達成可能な目標を立てることが、望ましいのです。

 これは、スポ-ツ・ビジネス・芸術など、さまざまな分野での目標設定に通じます。  究極(きゅうきょく)的には、人生目標の設定でも、同様だと思います。

2.脳科学者の茂木健一郎さんが、3月10日の日経新聞の 『 仕事術 』 という連載で、脳科学の観点から、目標設定について書かれていたので、紹介します。

 『 自分の脳が喜ぶように、仕事の難易度を調整しながら、取り組むことです。

 脳がいちばん喜ぶのは、全力でやって、ぎりぎりできるくらいの難しさの仕事に、取り組む場合です。  

 達成できると、脳内にド-パミンという報酬物質が出て、脳が喜び、直前にやっていた行動回路が強化されます。

 「 強化学習 」 といって物事が上達するコツです。

 「 この本を1時間で読もう 」 などと、私は子供のころから、自分に少し無理な課題を与えてきました。  

 夢中になって取り組んで、できなければ、次回は、難易度(なんいど)を調整すればよいのです。

 自分に楽をさせようと思うと、成長しません。  ビジネスマンも、アスリートであるべきです。

 成功しているビジネスマンは、全力で疾走(しっそう)していって達成できるかできないか、というレベルの目標を設定する人が多いようです。 』

3.今日はバタバタしていて、ブログを書く時間が、いつもより遅くなりました。

 これから、道場でトレーニングです。

 よい週末を。

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(2)昭和53年 『城西』誕生

1.昭和50年前後、極真会館の国内支部の数は、やっと10を超えるほどでした。  特に、東京には、池袋の総本部道場と、渋谷のマス・オーヤマ空手スクール ( 通信教育のスクーリング道場 ) しかありませんでした。  東京では支部道場を出さない、という方針のようでした。

2.当時、テレビ各局は、キックボクシングを放送していました。  また、そのころ、九州の空手団体がプロ空手の興行を始め、テレビでも取り上げるようになっていました。

 そこで、極真会館も郷田勇三師範を代表として、プロ空手興行に進出することになったのです。  そのための、道場が、北区田端にオープンしました。

3.プロ空手として、何試合か興行をやりましたが、結局は、途中で中止することになりました。  そこで、プロ空手の道場が、東京城東支部として生まれ変わったのです。

4.昭和52年ごろ、私は極真会館の支部道場を、やってみたいと思うようになりました。  その理由は、次のようです。

①城東支部ができたことで、東京でも支部道場を開設する道が開けたこと。

②このころ、友人で、年も同じの浜井識安君が、故郷の石川県で支部道場を開設したこと。

③受験勉強をやりながら選手を続けていたが、試験に合格したら、本格的に選手に復帰したかったので、そのための環境が欲しかったこと。

④公認会計士2次試験にチャレンジするに当たって、父には、大学院に通わせたと思って2年間だけ学費の面倒をみてくれるよう、頼んでいた。  昭和53年の本試験が不合格だと、必然的に仕事に就かざるをえない。  空手の指導は、大体、夕方からなので、就職するのに比べると、受験勉強の時間が取りやすいと考えたこと。

5.昭和53年の1月に、支部道場をやってみたい旨を、おそるおそる大山総裁にお願いしてみました。

 すると、 「 ぜひ、やってみろ。 」 とのご返事をいただきました。

 『 城西 』 が誕生した瞬間です。

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飄風・驟雨

1.飄風(ひょうふう)を、大辞林で引くと 「 急に激しく吹きおこる風。  はやて。  つむじ風。 」 と出ています。

 驟雨(しゅうう)を、大辞林で引くと 「 急に降り出し、強弱の激しい変化を繰り返しながら、急に降り止む雨。  前線または雷雨に伴われたものが多い。  にわか雨。  夕立。 」 と出ています。

2.老子の中に

 『 飄風は朝(ちょう)を終えず、

   驟雨は日を終えず 』 

 という言葉があります。

3. 『 老子・荘子の言葉 100選 』 ( 境野勝悟著 三笠書房刊 ) の解説を紹介します。

 『 激しい突風でも、あしたの朝までは吹きつづけられない。  突然強く降ってきたにわか雨も、夕方には止む。  ( 中略 )

 地位を得ても、いつまでも、その地位に安住することはできない。  財産を得ても、永遠にそれを守ることはできない。  ( 中略 )

 天の理、自然の理にしたがって生きるとは、 「 あらゆる生命のあり方は、つねに変化してしまう 」 という覚悟をして、日常を過ごすことなのだ。 』 

4.3月7日につづいて、また道教でした。

  老子は孔子 ( 紀元前551~479 ) と同時代の人で、荘子は紀元前4世紀後半の人といわれています。

 今から、2500年前の人たちも、行き方について考えたり、悩んだりしていたんですね。

 ちなみに、 『 荘子 』 は書名は 「 そうじ 」 、人名は 「 そうし 」 と読むそうです。 

 

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(1)昭和53年 支部長に

1.私のブログを読んで、読点(とうてん)、つまり ( 、 ) が多いと思われる方が、いらっしゃるかもしれません。  ブログを書くに当たって、次のような点を心がけています。

①ブログを、携帯で読まれている方が、多いようなので、なるべく1つの文章を短くする。

②同様に、読点を多くして、文を細切れにする。

③読みやすくするために、文章の頭に ( 1.2.3. ) の番号を振る。 

④少年会員が読むことも考えて、難しい漢字には、読みがなを振る。

2.閑話休題(かんわきゅうだい。 「 むだな話はさておいて 」 の意 )。

 今年の8月で、東京城西支部道場を開設してから、30年になります。

 何回かに分けて、支部の歴史を書いてみたいと思います。  ただ、なにぶん30年前のことです。  細かい点に関しては、記憶が必ずしも確かではありません。  あしからず。

3.昭和51年の3月に、中央大学商学部を卒業しました。  大学時代は、空手漬けで、勉強も就職活動も、まったくしませんでした。

 卒業後、私は、前年から始めた公認会計士2次試験の、受験勉強を続けていました。

 大学3年のときに、第6回全日本大会に出場し、その翌年は第1回の世界大会でした。  昭和51年の第8回大会は、受験勉強のため欠場しました。

4.昭和52年は合格して、選手に復帰するつもりでいましたが、肝心の本試験は不合格でした。  当時、公認会計士2次試験は、毎年7月に試験が行われ、9月に発表がありました。  練習不足は分かっていましたが、11月の第9回全日本大会には出場しました。  結果は、第6回大会同様、4回戦で延長戦負けしました。

5.昭和53年に、大山総裁から極真会館東京城西支部長の認可をいただいたのですが、その話は次回に、ということで ( 笑 ) 。   

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羊の目

1. 『 羊の目 』 ( 伊集院静著 文芸春秋刊 ) を読みました。  

 読書は好きですが、フィクション小説は、普段あまり読みません。  

2.伊集院さんについて、印象に残っているのは、スポーツ雑誌の 『 ナンバー 』 で、ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜選手について書かれたエッセイです。

 松井選手の大ファンですし、ヤンキースタジアムに何回も行っているので、そのエッセイを読んで、大変感動したことを、思い出します。

3. 『 羊の目 』 では、昭和8年生まれの神埼武美という主人公が、浅草の侠客(きょうかく)浜嶋辰三に育てられます。  成人後に、渡世上の 「 親 」 である浜嶋のために、対抗する組織の人間に対して、殺人を犯し続けるストーリーがベースとなっています。

4.ロサンゼルス生まれで、オリンピック・メダリストのプロボクサー、和美 ( 実は、神崎の実の子と思われる ) との会話が印象的だったので、紹介します。

 『 「 神崎さん 」  和美が口調をあらためて武美を見た。

 「 何でしょうか 」

 「 僕はこの頃、自分が敗れる夢を見るんです。  戦うことが怖くて、眠れない夜もあります。  

 本当に強い人間は、そんなことを思わないはずです。  どうしたら、勇敢に戦えるのでしょうか。 」  ( 中略 )

 「 自分は、君のお母さんが話されたような、強い人間ではありません。  それでもこれまでに、どうしても戦わなくてはいけない時がありました。  正直、自分はとても怖かったのです。  

 でもその時、自分が戦うのは自分のためではなく、誰かのために戦うのだと、言い聞かせました。  その人のために、勝って帰ろうと・・・・・・。  

 たとえ、敗れることになっても、直前まで逃げ出すことなく、恥ずかしくない戦いをしようと 」

 「 敗れる直前まで、恥ずかしくないように、ですか 」

 「 はい。  ずっと勝ち続ける人は、いないはずです。  

 私も怖がって、自分を情けなく思いました。  それは、相手も同じなんじゃないでしょうか。  

 人は皆、迷える子羊ですから・・・・・・ 」 』  

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道教

1.昨日取り上げた 『 無責任のすすめ 』 ( ひろ さちや著 ソフトバンク新書 ) の中から、宗教について書かれた部分を紹介します。

 『 こうした宗教は、私たちに人間らしい生き方を教えてくれる。  ( 中略 )

 中国人らしい生き方を教えるのが儒教。  ただし、儒教はあくまでも知識人、エリート階級の人間らしい生き方を教えるものだ。  ( 中略 )

 庶民に対して、人間としての行き方を説くものは何かというと、それが道教だ。 』

2.昨年の12月20日のブログで、私の好きな言葉として、 『 無為自然(むいしぜん) 』 を紹介しました。  

 この言葉も 『 老荘思想 ( 老子と荘子の思想 ) 』 、つまり 『 道教 』 の基本的立場を表した言葉です。

3.私は道教思想に則って生きたい、と考えているのですが、 『 無為自然 』 と同じように好きな言葉があります。

 それは 『 来るものは拒(こば)まず、去るものは追わず 』 という言葉です。

4. 『 老子・荘子 』 ( 守屋洋著 東洋経済新報社 ) の中の文章を、要約して紹介します。

 『 3回も、楚(そ)の国の宰相(さいしょう)をつとめた、孫(そん)という人物の話です。  

 宰相になっても、格別うれしそうな顔もしなかったし、その地位を去っても、別に悲しそうな顔をしなかったそうです。

 「 いったい、どんな心構えで毎日を過ごしているのか 」 と質問されたとき、次のように答えました。

 「 私はこれといって人様よりすぐれている点があるわけではない。 

 ただ、私が思うに、地位や名声というのは、向こうからやってくるのを拒むことはできないし、逃げていくのを無理に引き止めることもできない。  

 だから、やって来ようが逃げて行こうが、自分にはかかわりのないことだと思って、いっこうに気にしないのである。 」 』 

 よい週末を。



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ひろ さちや先生

1. 『 無責任のすすめ 』 ( ひろ さちや著 ソフトバンク新書 ) を読みました。  ひろ さちや先生は宗教評論家で、難しい仏教思想を、わかりやすく説明した本を、多数書かれています。 

2.空手修行に関係ありそうな部分を、2ヶ所紹介します。

① 『 イチロー選手の例があるね。  入団当初、あの振り子打法を、監督やコーチから変えろと言われる。  

 彼らとしては、そう要求するのは当たり前なんだ。  コーチが 「 その打法はいいな 」 なんて言ったら、コーチ失格でしょう。

 もし3人コーチがいたら、皆、意見が違うのは当たり前。  それが、専門家の専門家たる所以(ゆえん)だからね。  

 だけど、イチローは自分のやり方を貫き通して、今では、大リーグを代表する選手の1人にまでなったわけだ。 』

② 『 米長邦雄永世棋聖が、羽生善治氏との共著で、以下のようなことを書いていた。

 「 最初は、負けて負けて悔しくてならなかった。  ( 中略 )  

 『 あのときの、あの一手 』 と浮かんできて、腹が立って眠れない夜が、三晩も続いた。  ( 中略 ) 

 すると、お袋がぽつりと言ってくれた。  『 負けたかて、かめへんやんか。  相手はんが喜んではるで 』 と。

 その言葉を聞いて思った。  私が負けているということは、相手は勝っているんだ。  勝負師の世界では、相手が勝つこともある。  ( 中略 )  

 私の負けは、相手の勝ちなんだな。  勝負師の世界とはそういうものなんだ。  

 そのお袋の言葉で、はっと目が覚めた。  その言葉で、棋士をやってこられたんだ 」 

 母親の言葉で、相手を祝福する気持ち、その余裕が生まれたわけだね。 』

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啓蟄

1.二十四節気(にじゅうしせっき)、という言葉があります。  広辞苑には、次のように書かれています。

 『 太陽年を、太陽の黄経(こうけい)に従って、二十四等分して、季節を示すのに用いる語。  中国伝来の語で、その等分点を立春・雨水(うすい)などと名づける。 』

2.2008年は3月5日が 『 啓蟄(けいちつ) 』 です。  広辞苑には、 『 蟄虫、すなわち、冬ごもりの虫がはい出る意。  二十四節気の一つ。 』 と書かれています。

3. 『 中国名言集 一日一言 』 ( 井波律子著 岩波書店刊 ) の3月6日のページに、出典・解説が出ていました。

 出典・・・ 『 礼記(らいき) 』 月令(がつりょう)篇

 内容・・・東風 凍(とう)を解き

       蟄虫 始めて振(うご)き

       魚(うお) 氷に上(のぼ)り

       獺(かわうそ) 魚を祭り

       鴻雁(こうがん) 来たる

 解説・・・東風 ( 春風 ) が氷を溶かすころ

       蟄虫 ( 地中で冬眠していた虫 ) が動きだし

       魚が氷上に浮かび

       獺が獲物の魚を並べ

       雁(かり)が南から飛来する

4.啓蟄の日は、この漢詩にちなんでいるわけです。

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啐啄同時

1.啐啄同時(そったくどうじ)、という言葉があります。  辞書で引くと、次のように書いてあります。

①大辞林・・・禅で、機が熟して悟りを開こうとしている弟子に、師がすかさず教示を与えて、悟りの境地に導くこと。

②広辞苑・・・禅宗で、師家と弟子とのはたらきが、合致すること。

③故事ことわざ・慣用句辞典・・・逃してはならない、絶好のチャンス。  両者の気持ちが、ぴったり合うタイミング。  卵の中の雛(ひな)が成熟し、孵化(ふか)しようとして、殻(から)の内側をつつく音が啐(そつ)、それに応じて、母鶏(ははどり)が外から殻を突き破って、孵化を助けるのが啄(たく)。  「 啐 」 の音は 「 サイ 」 、 「 ソツ 」 は俗音(ぞくおん)。

2.空手の指導においても、啐啄同時というのは大切です。

 日常の指導というのは、個人の特性を重視しながらも、形式的・慣行的に行います。  

 しかし、特定の選手に対して、本質的な部分を指摘・指導しようとする場合に、選手本人に受け取る準備ができていないときもあります。  そのようなケースでは、時期を待つことも、指導者にとって必要になってきます。

3.つまり、選手本人が、自ら 「 気づく 」 まで、指導者がじっと待つということも必要なんです。

 もちろん、指導者からすれば、 「 なるべく早く、気づかせたい 」 のですが、あせると雛が孵化する準備が整わないのに、母鶏が殻をつつくことにもなりかねません。

4.日曜日の朝、日本テレビの番組で、徳光和夫さんがプロ野球・楽天イーグルスの野村克也監督にインタビューしていました。

 徳光 「 監督に必要な資質とは、どんなことですか? 」

 野村 「 最近、監督業というのは 『 気づかせ業 』 だと思うようになりました。  上から教えるのではなく、いかに選手自身に気づかせるか、そのために何をするか、だと思います。 」

 さすが、名監督ですね。

 ※携帯では 「 ソツ 」 の漢字が表示できませんでした。 口偏に卒業の 「 卒 」 です。



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片岡鶴太郎と横尾忠則

1.昨日の日経新聞に、俳優で画家の片岡鶴太郎さんと、美術家の横尾忠則さんの記事が載っていました。  それぞれ、紹介します。

2. 『 私の航海図 』 という特集は、片岡鶴太郎さんの談話でした。

 『 やりたいことは、絶対できると信じてやる。  すると、背中を押してくれる人が現れます。  

 絵を描き始めて、約1年後には、百貨店の美術部長が個展を持ちかけてくれました。

 100点もの作品が必要と聞いて、尻込みしていると 「 高名な画家だって、個展が決まらなければ、描きません 」 とひと言。

 その場で1年後の開催が決まり、夢中で、3日に1枚を描き上げる日々が始まりました。 』

3.横尾忠則さんは 『 患者の目 』 という特集の、4回連載の最終回でした。

 『 ちょっと体調がおかしいと、僕は、すぐに死ぬのじゃないかと思うのである。  だから、すぐに病院に行くのである。

 「 これっぽっちのことで死んでいると、日本から人間がいなくなりますよ 」 と言われる。  ( 中略 )

 人間は、生きるために死ぬのか、死ぬために生きるのか、どっちなのか分からないまま、いずれは誰もが死ぬのである。  

 だから、この現世の 「 今 」 が大事になるのだろう。  ( 中略 )

 宿命によって人間の運命は定められている、という考えがある。  

 だったらジタバタしなくっても、寿命が来ていなきゃ、死ぬことはあり得ない。  つまり、ほっときゃいいということになる。

 だけど、この考え方がたとえ真理だとしても、人間はやっぱり、ジタバタする。 』

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2008年02月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年04月