2008年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年05月

(14)昭和55年 第2回首都圏交流試合 

1.昭和55年4月、念願の常設道場を世田谷区の代田橋にオープンし、いつでも稽古できる環境が整いました。

2.6月、第2回首都圏交流試合が、前年末の第1回と同様、城東支部亀戸道場で開催されます。

 第1回交流試合でベスト3を独占したため、連覇に向けて期待が膨らんでいました。

3.第1回の結果を浜井識安君に話したところ、石川支部からも選手が参加することになりました。

 水口、松下、増田、国本(現・石川支部長)らの選手が出場します。

4.結果は、石川支部の水口、松下、増田の3選手がベスト3を独占します。  第1回・第2回の交流試合は3ブロック制だったので、3選手がリーグ(総当り)戦を行い、優勝・水口、準優勝・松下、第3位・増田となりました。

 城西の選手は、鴨志田(現・茨城常総支部長)が1人だけベスト6に残りましたが、前回優勝の大西を含め、完敗です。

 満を持して臨んだ試合だけに、ショックでした。

5.石川支部は城西より2年ほど早くスタートしており、水口らの選手は、東孝さん(当時の宮城支部長)の主催する東北大会にも遠征し、上位入賞を果たしていました。

 キャリアの差は歴然です。  技術的には突きの連打の有効性を学びました。

6.この時、高校生で第3位に入賞した増田章が、後に城西に移籍して、第22回全日本大会で優勝します。

 また、準優勝した松下利男選手が指導する石川県七尾道場の出身者が、現在城西で指導員を務める山辺光英と森善十朗です。

 めぐり合わせの面白さを感じます。

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川本和久監督

1.4月26日の朝日新聞・別紙『be on Saturday』に、福島大学陸上競技部監督の川本和久さんが、取り上げられていました。  女子短距離を中心に、教え子が次々と日本記録を更新し、卒業・実業団入り後も、福島にとどまり、練習を続けているそうです。  走り幅跳びの池田久美子、400mの丹野麻美、800mの佐藤美保、400mハードルの久保里美らの選手が、北京五輪を目指しています。

2.インタビュー記事から、抜粋して紹介します。

①短、中距離や跳躍では、身体的に日本人は不利だとされます。・・・『人間、出来ない言い訳は、いくらでも考えつくんですよね。  「人種が違う」というのもその1つです。 (中略)  91年に留学して、カール・ルイスのコーチ、トム・テレツさんに、「それは違う。  だれにも100mは100mだ」と諭(さと)されました。    その言葉で、自分に「福島大は地方だから、いい選手が来ないから、練習環境も良くないから」と言い訳をして、甘えていたことに気づきました。』  

②女子短距離を中心に、強化してきたのはなぜですか。・・・『ビジネスの世界でもそうでしょうが、成果を出すには、分野を特化する必要があります。』

③趣味や息抜きは?・・・『陸上やってること自体が、楽しいから。 (中略) 選手と陸上であちこち行って、体験を積めるから、こんなに幸せな人間は、いないと思いますね。』

3.解説記事から、抜粋して紹介します。

①池田久美子選手の話。「試合で私の結果が良い時に、先生はその日だけ喜んで、翌日は普通の態度で練習。  悪い時でも、『そんな時もあるさ』と引きずりません」  緻密(ちみつ)でありながら、楽天的な指導者が、内省的で粘り強い、東北人の選手らと融合して「陸上王国」を作り上げた。  

②一流アスリートを育てるコーチの仕事は、肉体の動きを、どこまで言語化(げんごか)できるかにかかるとされる。  丹野麻美選手の話。「先生の指導は、ポンとか、ガツーンとか、擬音(ぎおん)が多いのが特徴。  それがよく分かる」  選手に、イメージを短い言葉で、理解させるために、擬音を使うのも効果的だ。

③才能に恵まれたトップ選手を育てるだけでなく、自律意識の高い集団をつくることに腐心(ふしん)した。  川本和久監督の話。「シンデレラを1人作って、二人三脚で結果を出しても、後に何にも残りません。  普遍化(ふへんか)できる技術と指導法を蓄積すれば、ある選手で6年かかったことが次の選手で4年、その次は2年で出来ます。」

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度胸

1.経済評論家・作家の邱永漢(きゅうえいかん)先生については、私のブログで何度か紹介しています。

2.昨日の『Q&A ハイハイQさんQさんデス』という、邱先生への質問サイトのテーマは『度胸』についてでした。  邱先生は、第2次世界大戦後の台湾で、反政府運動に巻き込まれ、香港に逃亡するなど、波乱万丈の人生を送ってこられました。  邱先生の「答え」を紹介します。  番号は私が振りました。

 『①あなたが想像するほど、私は度胸のいい人ではありません。  心配性でもあるし、細かいことにも、それなりに気をつけます。  ですから、例えば、政府に反対するようなことをやったら、捕まえられて、銃殺にされるというのは、当然予想に入るわけですから、捕まらないように努力するということです。

②私の知っている人の中には、自分は悪いことをしていない、と思っている人もいました。  悪いことではないんですけど、政府から見れば悪い事ですから、そういう人は不用意で、捕まって牢屋に入ったり、銃殺されたりしてしまいました。

③私が助かったのは、政府の目から見たら悪いことをしているんだから、捕まらないように逃げなきゃ、といつも思っていたからです。  露見しそうになった時に、忽(たちま)ち逃げ支度にかかったので、そのおかげで、今日まで、生き伸びたというだけのことです。

④肝っ玉が座っているというよりも、そういうことに対する、認識と予防ができているかどうか、という差じゃないかと思います。 』

3.私も、度胸のある方ではありません。  どちらかというと、怖がりの方です。  現役選手のころ、そんな自分の度胸のなさが、いやだったこともあります。  でも、度胸がないということは、裏返すと、繊細で緻密(ちみつ)ということです。

 極真空手の組手試合の攻防は、極めて緻密な動きが、要求されます。  「俺も叩くから、お前も叩け」といった大雑把(おおざっぱ)な動きでは、チャンピオンになることは不可能です。  私の度胸のなさが「城西のテクニック」につながったのかもしれません(笑)。

4.ビジネスの世界でも、会社を長期的に発展させている社長は、大体、怖がりです。  怖いから、倒産しないように、慎重に緻密に経営するわけです。  度胸がよすぎると、短期的には成長するとしても、どこかで、予期せぬ落とし穴にはまる可能性が高いようです。

 明日は、大山総裁の命日です(合掌)。  三峯神社で行われる、14年祭に参加します。

 よい週末を。








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(13)昭和55年 代田橋道場

1.昭和53年8月にオープンした東京城西支部も、昭和54年末までに、227人の入会があり(法政大学同好会を除く一般会員)、茶帯も10人を超え、大西という黒帯指導員も誕生しました。  しかし、稽古は相変わらず、小田急線参宮橋の「オリンピック記念青少年総合センター」で土・日・月曜日の夜、行っていました。

2.また、平日の稽古スペースの確保のため、昭和53年秋より、小田急線南新宿駅近くの代々木小学校の体育館を、週に1度借りていました。  学校行事が優先されるため、曜日は一定ではありません。

 冬のある日、7時からの稽古に間に合うように、代々木小学校に行くと、門の前に、生徒が立っています。  学校行事が急に入ったので、今日は体育館を貸せない、とのことでした。  

 仕方がないので、数十人の生徒とともに、西新宿まで20分ほどかけて歩き、当時の淀橋貯水場の広場(現在は高層ビル群の敷地になっている)で、野天稽古をしました。  石川君(当時、日体大陸上部)などが参加していました。  今となっては、いい思い出です(笑)。

3.そうは言っても、いつまでもジプシー道場を、続けるわけにはいきません。  生徒の全日本大会出場も、そう遠いことではなくなったので、常時稽古できる、常設道場の確保が必要になっていました。  また、生徒からの会費収入も、ある程度の額になってきたので、月ぎめ家賃の負担にも耐えられるめども立ってきました。

4.当時の東京では、月ぎめで賃借する空手の道場がほとんどありません。 イメージが良くないのか、 ビルの持ち主に、空手の道場というと、嫌がられました。

 当時の会員で、友人でもあった伊藤さんに手伝ってもらって、城西地区の物件を見て回りました。  なかなかなかったのですが、代田橋の大原交差点近くに、省東自動車というタクシー会社が持つ「大原ビル」が賃貸募集しているのを見つけました。  4階が40坪で、月の家賃が30万円でした。

 家賃は10万円台を考えていたので、予算オーバーです。  ところが、地下に、鶏卵の保管場所に貸していたという、倉庫スペースを偶然見つけました。  17坪で、家賃が共益費込みで、15万円程度だったと思います。  結局、そこを借りることにしました。

5.後から分かったのですが、地下で換気が悪く、おまけに地下の浄化槽から、蚊が大量発生します。  狭い・臭い・蚊が多いと、稽古スペースとしては、最悪に近い環境でした。  でも、後にその道場から、大西・黒澤・増田と、3人の全日本チャンピオンが誕生します。

 時間借りではない、常設の道場で、いつでもサンドバックを蹴られるようになったことが、とても嬉しかったことを思い出します。  手作りの道場で、壁のペンキは、過去にバイト経験があった大西が塗りました。

 

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余裕

1.4月10日にも紹介した、東洋思想家・安岡正篤(やすおかまさひろ)先生の『安岡正篤一日一言』(致知出版社)の、今日の項のテーマは『余裕』です。  紹介します。

『 「千万人と雖(いえど)も、吾(われ)往(ゆ)かん」と言った孟子(もうし)が、同時に、別面において、「豈(あ)に綽々(しゃくしゃく)余裕有らざらんや」と言って、余裕というものを論じておりますが、こういう乱世になればなるほど、われわれは、余裕というものを持たなければならない。  

 余裕があって初めて、本当に物を考えることも出来る、本当に行動を起こすことも出来るわけです。  
 
 殊(こと)に、善人は神経が細いから、尚更(なおさら)、本当の意味の余裕が必要であります。 』

2.「」内の意味は次の通りです。

 「千万人と雖も、吾往かん」・・・自分の考え、行ないが正しいと思ったら、たとえ相手が千万人であろうとも、自分を主張する勇気を持とう、の意。

 「豈に綽々余裕有らざらんや」・・・ゆったりと余裕を持っていこう、の意。

3.伸び縮みするゴムも、いつも引っ張ったままでは、いずれ弾力が失われてきます。  

 自動車のハンドルにも、必ず「遊び」があります。

 空手の試合でも同様ですね。

 絶対に負けられない、重要な試合であっても、肩の力を抜いて、ある意味楽しみながら戦った方が、良い結果が出るようです。

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(12)昭和54年 首都圏交流試合

1.城西支部は昭和53年にスタートしたのですが、その2年前に城東支部が、城西とほぼ同時期に城南支部が、それぞれオープンしています。  それから2~3年のうちに、埼玉支部、栃木支部、城北支部なども開設されました。

2.昭和54年秋の第2回世界大会の後、12月に、城東支部亀戸道場において、第1回首都圏交流試合が開かれました。

 当時の全日本大会は、総本部全盛時代でした。 

 城東、城西、城南ともに茶帯の生徒が増えつつありましたが、全日本に出すにはまだまだ経験が足りません。  そこで、将来の全日本出場を見据えて、若手選手が経験を積む場を設けることにしたのです。

3.支部開設以来1年3か月間、私なりに工夫して教えてきたつもりでしたが、客観的な実力は未知数でした。

 結果的には、優勝・大西、準優勝・湯城(ゆうき)、第3位・石川と、ベスト3を城西の選手が独占します。  自分が育てた選手が試合に勝つ、という喜びを初めて体験しました。

 この後、首都圏交流試合は全日本選手権への登竜門(とうりゅうもん)となっていきます。

 首都圏交流試合の後、指導員確保の必要性もあり、大西を初段にし、城西最初の内弟子指導員としました。

4.後日談があります。

 結婚当初、私は南浦和に住んでいました。  昭和54年の年末に、大西を連れて、近くの西川口に住む盧山師範のご自宅に遊びに行きました。

 盧山師範から、交流試合優勝のお祝いに、ご自分が優勝された、第5回全日本大会の優勝トロフィーの1つを、大西に下さるということでした。

 ところが、頂いたトロフィーのプレートには、第5回ではなく、間違って、第15回全日本大会と書いてありました。

 そして、4年後の第15回大会で、大西は優勝することになります。

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大横綱・双葉山

1.『横綱の品格』(双葉山著 ベースボールマガジン社刊)を読みました。

 双葉山の「69連勝」は、70年間破られない、不滅の大記録となっています。  年2場所制の、1936年1月場所から、1939年1月場所にかけて達成され、この間、5場所連続全勝優勝を飾っています(当時、1場所11日・13日制でした)。

2.本の中の「受けて立つ」という項を紹介します。  番号は、私が振りました。

『①もともと、「受けて立つ」という取り口には、2通りあるように思われます。  

②文字通りに「受けて立っ」て、相手を倒すというのは、その1つですが、これは自分と相手との間に、よほどの力の隔(へだ)たりがなければ、不可能なことなのです。  私などの場合では、相手との間に、それほどの力の開きがあったわけではないのですから、それはいわば「できない相談」なのです。

③私の場合、「向こうの声で立つ」・・・「向こうが立てば立つ」、しかし立った瞬間には、あくまでも機先を制している・・・換言(かんげん)すれば、いわゆる「後手の先(さき)」で、立った瞬間には、自分として十分な体勢になっている、そういう立ち合いだったといえましょう。

④以上2つの「受けて立つ」は、外形上、結果的には同じようにみえても、内実的には、確たる差異がひそんでいるのです。  私の「受けて立つ」は、相手との力の違いがさほどなくても、心がけしだいで、できることだと思います。』

3.同様に、「目に頼らぬ」という項を、抜粋して紹介します。

『①相撲の技は、今さら申すまでもないのですが、頭で考えるだけでは駄目なのはもちろんのこと、頭で考えて、それから技が出るというのでも、駄目なのです。 (中略)  こうと思った瞬間には、もう技が出ているのでなければなりません。  (中略)  

②「心身一如(しんしんいちにょ)」とでもいいましょうか、自分の意識と体とが、一枚になりきるのでなければ、勝ちを制するのはむずかしいのです。

③相手の「隙(すき)」をつかむことは、勝負の上に肝要(かんよう・・・非常に大切なこと)このうえもないことですが、さてその「隙」は、眼で知るのではなく、こちらの体で感得(かんとく)すべきです。  自分の修練が積んでくると、相手の身体的ないし心理的な動きは、ただちに自分の身に感応されるものです。』

4.ちなみに、双葉山は6歳ごろより、右目がほとんど見えなかったそうです。

 明日の金曜日から、来週の月曜日まで、ブログをお休みさせていただきます。  次は、22日の火曜日に、お目にかかります。

 よい週末を。
 

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野村克也監督

 4月7日の朝日新聞夕刊に、楽天イーグルスの野村克也監督が、取り上げられていました。  

 大見出しは『ぼやきが育む「人間力」』、小見出しは『好調楽天に「情の野球」』となっていました。  抜粋して紹介します。  番号は私が振りました。

『1.心が変われば、態度が変わる

   態度が変われば、行動が変わる

   行動が変われば、習慣が変わる

   習慣が変われば、人格が変わる

   人格が変われば、運命が変わる 

   運命が変われば、人生が変わる

 楽天の野村克也監督が、よく口にするヒンドゥー教の教えだという。  (中略)

2.楽天が、開幕前の予想を覆(くつがえ)し、5割に踏みとどまっている(4月15日現在、10勝11敗、勝率4割7分6厘)。

 「再生工場」と「新製品工場」がフル稼働している。

 山崎武司は、いかにしてよみがえったのか。  

 「最初は、自分とは合わない人だと思っていた」と山崎は振り返る。  「僕は義理、人情を大切にするタイプ。理論派の野村監督とは、水と油じゃないかって」。  

 それが違ったという。  「オリックスをクビになって、悔しかったろう。見返してやれ」。  そう最初に、声をかけられた。  

 さらに「野球は生きるための手段。人生を生きることが、大きな目標」とも言われたという。  これで、山崎の意識が変わった。  「野村さんは、野球がすべての人だと思っていた。それが、人間教育を1番に考えている人だとわかった」  (中略)

3.野村監督の野球は「データ野球」だと言われるが、僕(西村欣也編集委員)は、本当は「情の野球」なのではないか、と思っている。

 試合後のぼやきも、それがマスメディアを通して、選手にどう伝わるか、を計算している。』

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(11)昭和54年 受けの空手と待ちの空手

1.昨日のブログで、城西の空手は「受けの空手」だと書きました。  誤解があるといけないので、2日続けて、技について書いてみます。

2.昨日、「受け(防御)」の重要性について書きました。  しかし、私は「選手が大成するには、攻撃型でなくてはならない」と思っています。

 基本的には、先手先手と、自分から仕掛けていくのが理想です。  ただ、攻防の中で、相手も攻撃してくるので、それはすべてカットして、自分の攻撃を返していきます。

3.実際には、お互いに攻撃しあっている中で、①自分で仕掛けた攻撃で、相手を崩して技を決める、②相手が仕掛けてきた攻撃を受けることによって、相手を崩して技を決める、の両方の動作をするわけです。

 自分から仕掛ければ、当然、相手も応戦してきますから、「受け返し」するチャンスも広がります。

 お互いに攻撃しあっているにも関わらず、自分だけが的確な決め技を出しているという、一方的な展開に持ち込めるわけです。  もちろん、実際はそう簡単ではありませんが、理想はそうです。

 昭和58年の第15回大会で、大西・小笠原が決勝を争い、直後の首都圏交流試合で、ベスト8の内7人が城西の選手だった時期があります。  そのころの状況は、城西勢が受け返しを研究し、それを知らない相手選手が、その戦法にうまくはまったんだと思います。

4.「受けの空手」と「待ちの空手」は違います。  受けの空手は、自分から仕掛けていくため、チャンスを自ら作り出すことができます。  待ちの空手は、自分から仕掛けず、相手の攻撃を待っているため、相手が仕掛けて来なければ、チャンスを作り出すことができません。

 第12回大会、第14回大会での私の敗因は、「待ちの空手」になっていたことにありました。  試し割りで負けていることが分かっているにも関わらず、自分から仕掛けて行かずに、相手の攻撃を待っていました。  結果は、再延長や再々延長にもつれ込み、試し割り判定負けです。

5.自分から仕掛ける、攻撃型の選手でなければ、全日本や全世界大会のチャンピオンにはなれません。  

 そういった意味で、道場では、「受け返し」の研究と同様、「コンビネーション」の研究にも、時間をかけたつもりです。

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(10)昭和54年 受け返し 

1.試合に勝つためには、精神的な強さは、もちろん必要です。  極真空手の修行を通して、勇気・負けん気・目的意識・我慢・根性・忍耐力といった、精神的な強さを、養う必要があります。  よく言われる「極真魂(きょくしんだましい)」を身に付けるのです。

2.ただ、試合は精神力だけで、勝てるわけではありません。  私は、どちらかというと、身体的な要素を、重視してきました。

 身体的な要素とは、技・パワー(筋力)・スタミナ(持久力)です。  試合において、相手選手より技・パワー・スタミナの、すべてがまさっていれば、精神的な要素に頼らずに、勝つことができると思います。

3.私は、極真空手における「技」を「相手を倒すための、正しい体の動かし方」と考えています。  

 試合ルールにのっとって、突き・蹴りを当てて(決めて)、相手を倒すのです。  しかし、相手も当てられまい、倒されまいとして、当然、防御します。  

 そこで、相手が防御できないように、相手の構え・体勢・バランスを、崩す必要があります。  つまり、「崩し→決め」という一連の動作が、「技」の根幹(こんかん・・・重要な部分)です。

4.崩しには、①自分から攻撃して崩す「コンビネーション」と、②相手の攻撃を利用して崩す「受け返し」の2つがあります。  相手の攻撃と同時に技を出す「合わせ技(カウンター)」は、「受け返し」の進化したもの、と考えています。

5.極真空手だけでなく、他の格闘技や、球技でも「攻撃」と「防御」があります。  私は、最も大事なのは、防御だと考えます。  

 野球で言えばピッチャーや守備、サッカーで言えばゴールキーパーやディフェンスが大事です。  そこが弱いと、点を取られるため、結果として、負ける可能性が高まります。

 打撃系の格闘技においても「受け」が大事です。  いくら、強い突きや蹴りを持っていても、受けが弱いと、倒される可能性があるからです。  

 特に、極真空手の試合は、ほとんどトーナメントで行われるので、受けが弱いと、ダメージを残したまま、次の試合を戦わなくてはいけないことにもなります。

6.しかし、一方で、自分が攻撃しないことには、相手に勝つことができません。  そこで、自分は完璧に受ける同時に、相手が攻撃してくるときの構え・体勢・バランスの崩れを利用した、あるいは、相手の攻撃を受けながら崩す、「受け返し」が重要なのです。

7.城西の空手は「受けの空手」です。  「相手の攻撃は、すべてカット(防御)して、自分の攻撃は、的確に、相手の弱い部分に当てる」、これが理想です。  道場を持ってから、その研究に、多くの時間とエネルギーを費やしました。

 

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(9)昭和54年 道場指導

1.私は、昭和49年秋に、初段になりました。  指導員ではなかったので、総本部時代は、もっぱら自分の稽古ばかりしていました。  

 当時の総本部道場の稽古は、準備運動10分・基本稽古50分・移動稽古および型稽古50分・補強10分・組手20分・整理運動および道場訓唱和10分、といった内容です。  

2.総本部の黒帯は、全日本大会では皆ライバルなので、後輩に、組手技術を細かく指導するということはありません。  組手の研究は、各自が自主トレ的に行っていました。 

 また、ビデオも普及し始めたばかりで、ビデオを見て研究する、といったことは、やっていませんでした。  組手の技術は、道場や大会で、先輩の組手をよく見て、まねをする、といったことが中心でした。  

3.自分の道場で、指導するようになって、私は、次のようなことを心がけました。

①自分なりに理解している組手技術を 「 よく見て、学べ 」 ではなく 「 ていねいに、全てを説明しながら教える 」 。

②生徒とともに、組手技術を研究していく。
 
③次のような理由から、身体に当てないスパーリングを取り入れる。

・お互いに力を抜いたスパーリングをすることによって、さまざまな技の工夫やチェックが容易になる。

・激しい組手をすることに比べ、ケガが少なく、結果として生徒が長続きする。  

④最低限の礼儀は必要だが、先生と生徒が気軽に話せるような雰囲気を作る

4.つまり、組手技術を研究する、大学の研究室のようにしたかったのです。  私が指導教授で、生徒が研究員で、一緒になって研究し、試合で研究成果を発表する、といったようにです。

 ビデオカメラを購入し、ビデオを使った研究も取り入れました。  今では当たり前のことですが、ビデオの導入は、極真空手の組手技術の向上に、画期的な役割を果たすことになります。

 よい週末を。

 

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日用心法

 東洋思想家・安岡正篤(やすおかまさひろ)先生の 『 安岡正篤一日一言 』 ( 致知出版社刊 ) の4月8日・9日の項に 「 日用心法(にちようしんほう) 」 つまり 「 日常、用いるべき心がけ 」 が、15項目出ていました。  紹介します。

第1 毎日の飲食を、適正にやっているか。

第2 毎晩、よく眠れるか。

第3 自分の心身に、影響を与えているような、悪習慣はないか。

第4 適当な運動をしているか。

第5 日常生活の出来事に、一喜一憂(いっきいちゆう)しやすくないか。

第6 精神的動揺があっても、仕事は平常通り続け得るか。

第7 毎日の仕事に、自分を打ち込んでいるか。

第8 自分は仕事にどれだけ有能か、自分は仕事に適するか。

第9 現在の仕事は、自分の生涯の仕事とするに足りるか。

第10 仮に、自分の仕事がどうしても自分に合わぬ、自分の生活が退屈であるとすれば、自分の満足は何によって得るか。

第11 自分が絶えず追求する、明確な問題を持っているか。

第12 自分は人に対して親切か、誠実か。

第13 自分の人格の向上に資する ( 役に立つ ) ような、教養に努めているか。

第14 特に何か、知識技術を修めているか。

第15 自分は、何か信仰・信念・哲学を持っているか。

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不遇とチャンス

 イラストレーターの上大岡トメさんが、3月29日の日経新聞に 『 不遇の時こそチャンス 』 という文章を、書いていました。  紹介します。  番号は、私が振りました。

 『 1.先日、仕事の企画が、不採用になってしまいました。  

 ひそかに気合を入れ、出来上がりも、気に入っていました。  この企画から、いろいろ広げよう、と期待していただけに、ガックリです。 

2.私は、物事が実現する前に、いろいろと想像するタイプ。  

 そういえば、大学受験の時も、本命の国立大を受ける前に、キャンパスライフを、いろいろ考えていました。  スケートボードを買って、広いキャンパス内を、かっこよく滑って、移動しようとか。  でも結果、不合格。  ( 中略 )

3.でも、実際に行った大学の生活は、すごく面白かったし、人生を左右するような出会い ( 配偶者 ) もありました。  

 こうして思い返してみると、自分の思い通りにいかないときこそ、チャンスがあるのだと思います。

4.3年前に 「 キッパリ! 」 という本が出るまでは、とにかく考えた企画は、軒並み不採用。  

 日の目を見るのに、何年という月日がたったやら。  絶望的な気持ちに、何度もなりました。  

 でも、その間に知り合った人々に、今も支えてもらい、一緒に仕事をしています。  ムダなことはないんですよね。

5.だから、今回、仕事がうまくいかなかったことも、神様が、そのあいたスペースに、他の何か違うものを入れるチャンスを、くれたんじゃないかな、と思います。  

 いろいろ想像したのも、そのままじゃもったいないので、違う形で実現しよう。  新たな人との、出会いもあったし。

6.新しい目標ができたので、いろんな情報を受け取るために、アンテナをたくさん立てるつもりです。 』

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(8)昭和54年 ウェイトトレーニング

1.第11回全日本大会で、東孝さんに判定負けして、パワーアップの必要性を、痛感しました。

 昭和46年の入会時に、64kgだった体重も、78kgになっていました。  しかし、全日本のトップクラスと戦うには、パワー不足です。  

2.道場スペースを借りていた 「 オリンピック記念青少年総合センター 」 のトレーニング施設で、自己流のベンチプレスは、やっていました。  でも、本格的に指導を受けて、ウェイトトレーニングに取り組んだことは、ありませんでした。

3.筋力トレーニングの目的には、最大筋力のアップ ( どれだけ重いものを、持ち上げられるか ) と、筋持久力のアップ  ( 一定の重さのものを、いかに数多く、持ち上げられるか ) があります。

 柔道や相撲などでは、相手の道着や回しを長時間握ったまま、戦う必要があるので、両方必要です。
  
 しかし、極真空手の試合では、最大筋力のアップに、主眼を置くべきだと思います。

4.西国分寺に 「 アスレチック・セキ 」 という、パワーリフティングのジムがありました。  

 現在、府中道場をお借りしている 「 パワーハウス 」 の吉田会長をはじめ、パワーリフティングのチャンピオンが、多数在籍されていました。  そこに、お世話になることにしました。

5.その当時、選手が出場できる大会は、全日本大会・全世界大会しかありません。  

 5月の第11回全日本大会で、入賞できなかったので、11月の第2回世界大会には、出場できません。  次に、私が出場できるのは、翌昭和55年秋の、第12回全日本大会です。

6.結果として、約1年半かけて、本格的に、ウェイトトレーニングに取り組めたのは、良かったと思います。  1年半で、記録と体重が次のように、伸びていきました。

①ベンチプレス  100→137.5kg

②スクワット  130→200kg

③体重  78→83kg


  

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国際親善大会に想う

1.昨日・一昨日は、国際親善大会でした。  城西支部からは、16歳17歳男子+75kgの部に小林大起、女子軽量級の部に宮崎未絵、の2選手が出場しました。

2.大起は決勝戦で、ロシアの選手と当たり、体重判定で負け、準優勝でした。  本線・延長戦とも、副審の旗は2本、大起に上がりましたが、主審のジャッジは引き分けでした。

 体重判定では、公式体重となる、朝の計量記録が、93kgと発表されました。  普段の体重が、85kg前後であることを考えると、何かのミスだと思われますが、規則は規則なので、仕方がないと思います。

 試合後、大起とセコンドの山辺を呼んで、次のような話をしました。

①計量係りも人間である以上、ミスがありうるので、計量時に、自分でも計量・記入を確認すべきである。

②体重の件は不運だが、そのことを含めて勝負だから、自分が出した結果として受け止める。  人生や勝負には、運・不運がつきものだ。  そして、3月28日のブログにも書いたように、人間万事塞翁が馬ということがある。  この不運は、次の幸運につながるはずだ。

③結果として、負けたことによって、有頂天(うちょうてん)にならずにすみ、その悔しさが、次からのトレーニングの原動力になる。

④神様が 「 もっと強くなれ。 」 と言ってくれている。  たとえ判定になっても、副審の旗が4本上がるように、完璧に勝たなければいけない。  そのためには、技・パワー・スタミナのすべてにおいて、より一層の強化を図るべきである。

 技術的なことを少し付け加えると、もう少し、技のバリエーションが欲しいと思います。  せっかく、体が柔らかいのですから、上段の蹴りをもっと生かすべきです。

 歴史的に見ると、上段を蹴らない選手が、世界チャンピオンになった例はありません。

3.宮崎は2回戦で、リーチの長いアメリカの選手に、判定負けし、ベスト16でした。  宮崎とセコンドの山辺、上別府さんに、次のような話をしました。

①判定勝ちした1回戦もそうだったが、リーチの長い選手の、ストレート系の突きを、自分の腕を抱え込んで受けていると、仮に、効いていないとしても、審判に対する印象が悪い。  自分も突きを打つか、相手の突きをいなすか、横に回り込むかして、打たせなくする必要がある。  相撲で、突っ張りに対抗する方法と同様だ。

②世界大会で勝つには、もっと試合数をこなす、つまり、経験を積む必要がある。

 付け加えて言うと、大起と同様、次のようなことが言えると思います。

①技・パワー・スタミナのすべてにおいて、より一層の強化を図るべきである。

②もう少し、技のバリエーションが欲しい。

4.二人の更なる可能性が見えるだけに、若干、辛口のコメントになりました。

 いずれにしても、お疲れ様でした。  ゆっくり休んでください。

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賢い身体 バカな身体

1. 『 賢い身体(からだ) バカな身体 』 ( 桜井章一・甲野善紀著 講談社刊 ) を読みました。

 著者紹介によると、武術稽古研究会松聲館(しょうせいかん)・館長の甲野先生は、現在では失われた、精妙(せいみょう)な古伝(こでん)の術理(じゅつり)を探求しつつ、武術の研究を行っているそうです。  

 同様に、雀鬼会(じゃんきかい)・会長の桜井先生は、麻雀(マージャン)の世界で20年間無敗で、 「 雀鬼 」 の異名をとったそうです。

2.両先生の対談集ですが、その中で 「 練習と結果 」 について、語られている部分を紹介します。

 『 桜井・・・学び、練習するほうもまた、厳しさ一辺倒では、ダメだと思います。  

 厳しい練習を厳しくやるような人は、そんなに伸びないんです。  苦しみながら、うんうん言って練習するより、楽しみながら練習したほうが、ずっと伸びます。

 みんな、ストイックにがんばってやったほうが、いい結果が出るような、イメージを持っていますけど、逆ですね。  

 いい結果が出れば、誰でも、楽しい気分になりますよね。  つまり、練習のときから楽しんでやれば、いい結果も生まれやすい、ということです。  

 もし、練習が大変だなと思ったら、遊び心が持てるような工夫を、あれこれ自分なりにすればいいんですよ。

 甲野・・・ ( 前略 ) 同じ内容のことばかりを、同じような形でやるから、ちっとも面白くない。  

 物事は、変化があるから面白いのです。  

 変化は、現状を否定するところからも生まれる。  現状を否定することで、新たな感覚が生まれ、新たな世界が見えてくる。  

 そうなれば、面白くなるから、指導者からごちゃごちゃ言われなくても、どんどん自分から進んで、練習するようになるでしょう。 』

3.明日・明後日は国際親善大会です。  よい週末を。

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(7)昭和54年 第10回大会

1.公認会計士試験は、第1次から第3次まで、3回の試験があります。  

 第1次試験は、大学の一般教養課程を終えれば、免除になるので、私は第2次試験から受験しました。

 第2次試験に合格すると、1年間の実務補修と、2年間の業務補助を経て、3年後に第3次試験を受験します。  ですから、私の場合、早ければ昭和56年秋の第3次試験を受けることになります。

 昭和54年前半は、1年間の実務補修期間中でした。  週3回、月・水・金曜日の夜、本郷にあった公認会計士協会に通いました。  

 30年も前のことなので、現在とは、システムが違うかもしれません。

2.昭和54年5月、その年の11月に開催される、第2回世界大会の選抜を兼ねた、第11回全日本大会が行われました。

 以前にも書いたとおり、前年の第10回大会の前は、あまり稽古できませんでした。  今回はその後、半年間稽古できたので、ある程度自信を持って、試合に臨むことができました。

3.試合は1日で行われ、64名の選手が出場しました。  

 トーナメント表を見ると、2回戦で浜井識安君、それに勝つと、3回戦は、やはり同期の東孝さんと当たります。

 浜井君の顔面殴打の反則もあり、2回戦は判定勝ちしましたが、3回戦は、逆に判定負けしました。  

 ベスト16で、世界大会代表枠のベスト8には入れませんでした。

4.この年の10月10日に結婚しました。  公認会計士の福田富雄先生に仲人をお願いし、主賓として大山総裁ご夫妻にも来ていただきました。  

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新社会人に向けて

1.新聞やテレビで、入社式のニュースを見かけます。  新社会人は、希望や不安の中で、新しい人生の門出を迎えていると思います。

2.最近読んだ新聞記事から、新社会人にとって役に立ちそうな内容のものを、2つ紹介します。

① ( 3月24日 日経新聞 ) コピーライター・糸井重里さんのインタビューより

 『 原点に立ち返るべきです。  昔は、建具屋さんに建具を頼むと、ついでに棚もつくってくれました。  人の役に立つのが、働くということ。  文字のない時代から、仕事にはそうした心がありました。  

 商いをして得をする、それが仕事だという歴史の方が浅いのです。  ( 中略 )

 最近、目的意識に合わせたことしかできない人が多すぎます。  何かの役に立つことなど、せいぜい人生の何分の一あるかないか。  

 役に立たないことの方が多いのです。  ところが、それがまた役に立ったりする。  』

② ( 3月26日 朝日新聞 ) 資生堂元社長・福原義春さんのインタビューより

 『 人は、他者とのコミュニケーションの中で生きています。  その要(かなめ)に、一人ひとりの < 文字力 > があります。  ( 中略 ) 

 では、 < 文字力 > はどう養うか。  それは、本や新聞などの < 活字 > に触れること、が一番の近道だと思います。

 本は、人類の叡智(えいち)の集積です。  ソクラテスが何十年もかけて、ようやく到達した思想が、本を読むだけでわかるのだから、読まないなんてもったいない。  ( 中略 )

 もちろん、本を読まなくたって生活できるし、人生の長さに変わりはありません。  でも僕は、人生においては、クオリティーや豊かさにこだわりたい。  そのためには、文字や活字に触れることが、必要だと思うのです。 』

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(6)昭和54年 大西靖人入会

1.昭和53年8月26日に、オープンした東京城西支部は、この年、60人の入会者がありました。  翌昭和54年も167人の入会、と順調にスタートしていきます。

2.私は、昭和46年8月に、極真会館総本部道場に入会しました。  ちなみに、後から本部の入会申込書を見て知ったのですが、私の次が、1日遅れで入会した竹和也師範 ( 極真会館九州本部長 ) です。  

3.当時、高校3年生で、大学受験のため、あまり稽古に参加できず、本格的に道場に通い始めたのは、大学が決まった、昭和47年3月からです。

 この年の5月に、東孝さんや浜井識安君が入会してきます。  浜井君とは年も一緒で、大変仲良くなりました。

4.浜井君を通じて、後に入会する、弟の浜井良明君 ( 極真会館中部本部長 ) とも親交がありました。  当時、法政大学の4年生だった良明君は、総本部道場に通っていました。  私が支部道場をスタートさせたことを聞いて、師範代を務めてくれるようになります。

5.ある日、良明君から 「 法政大学に 『 実戦空手同好会 』 があるが、一緒に稽古させてもらえませんか。 」 との話がありました。  私は 「 ぜひ参加するように。 」 と伝えました。

 そこで、良明君に連れられてやってきたのが、3年生の大西靖人です。  昭和54年の夏前のことだったと思います。

6. 『 実戦空手同好会 』 のメンバーは、法制大学の応援団、空手部、拳法部などをやめた人間で作った右翼団体・義和会が母体となっていました。  まるで、当時はやっていた劇画の 『 花の応援団 』 そのものでした。

 見かけはいかついものの、一緒に稽古したり、話してみると、素直な人間ばかりです。  今でも付き合いのある、野村、伊藤、湯城、成瀬、坂本などがいました。

7.結局、4年生の近藤を主将として、 『 実戦空手同好会 』 はそのまま 『 極真会館法政大学同好会 』 に形を変えることになります。

 同好会としての入会なので、3月19日のブログに書いた、一般会員の入会記録の中に、大西靖人の名前はありません。

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