2008年04月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年06月

(18)昭和56年  東京都下・城西支部誕生

1.昭和56年5月、第4回首都圏交流試合が行われました。  大賀が前年12月の第3回に続き、連覇を果たします。

2.8月27日、大山総裁から東京都下(東京都の23区以外)の支部長認可をいただきました。  それ以降、「城西」の正式名称は「東京都下・城西支部」となります。

 以前は、添野義二師範が「都下・埼玉支部」として支部長を務められていましたが、極真会館を離れ士道館を興されました。  そこで、埼玉県南支部長だった盧山初雄師範が埼玉県支部長になり、私が東京都下を管轄することになったのです。

 都下の第1号道場は立川市でスタートしました。  立川市柴崎町の諏訪神社境内にある、立川市錬成館を週に2~3回借りてスタートしました。  横浜東支部長の青木や、城西世田谷東支部・分支部長の真銅が入会します。

3.前年の第12回全日本大会に出場後、私は現役を引退するつもりでした(実際は第14回大会にも出場するのですが)。  というのは、昭和56年の11月に公認会計士第三次試験を控えていたからです。  公認会計士試験は第二次試験終了後、1年間の実務補習、2年間の業務補助を経て、第三次試験の受験資格が得られます。  私は昭和53年の第二次試験に合格したので、昭和56年が初めての第三次試験受験となります。

4.昭和56年後半は東京都下・城西支部の誕生、立川道場のスタートを除けば、次のように不本意なことが続きました。

①当時、大西や大賀に続く選手候補の茶帯が3人いました。  3人とも、高校生や大学生の10代で、体重が90キロぐらいあり、大変期待していました。  ところが、ある時期を境に稽古に来なくなり、結局、退会します。

 大山総裁にお目にかかったときに、その話をすると、「素質がある生徒がやめても、また素質がある人間が入会してくる」と言われました。  長い指導経験を踏まえておっしゃったのでしょうが、当時の私には慰めにしか聞こえませんでした。  しかし、翌年以降、小笠原、黒澤、増田などが移籍してきたので、実際、総裁の言われた通りになります。

②11月1日に行われた、第5回首都圏交流試合ではベスト4に城西の選手が1人も入れませんでした。  先ほどの3人の退会が悔やまれました。

③11月14・15日の第13回全日本大会には大西、大賀、鴨志田の3人が出場しましたが、全員、初日敗退します。

 特に大西は、前年、初出場ながら第2回世界大会8位入賞の川畑幸一選手(現、近畿本部長)に判定で勝ち、3回戦進出を果たしていただけに期待されていました。  2回戦で、また川畑選手と当たりましたが、今度は判定負けします。

 よい週末を。

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ヘミングウェイの酒

1.『ヘミングウェイの酒』(オキ・シロー著 河出書房新社刊)を読みました。  ノーベル文学賞作家アーネスト・ヘミングウェイの著作に登場する酒を取り上げ、エッセイ風に書かれています。

2.「はじめに」のページに書かれている「ヘミングウェイの足跡」の抜粋です。

 『1899年7月21日、アメリカ・イリノイ州のシカゴ郊外オーク・パークにて生まれる。

 青年期のごく初期までとキー・ウェスト時代を除き、ヘミングウェイは、生涯のほとんどを外国で暮らしている。  パリやキューバでは居を構え、スペインやイタリー、アフリカなどでは長旅という形で。

 1926年『日はまた昇る』、1927年『武器よさらば』、1940年『誰がために鐘はなる』、1952年『老人と海』を発表。  1954年ノーベル文学賞受賞。

 一作家としてだけでなく、容姿、生活スタイルも含めてスター的存在だった、文豪ヘミングウェイ。  私(オキ氏)も二十代の始め頃、『日はまた昇る』を読んで以来のミーハー的ファンで、新作が待ち遠しかった。  中でも心ひかれたのは、作品上にさり気なく出てくる酒の数々。』

3.前にも書きましたが、私は2006年10月にキューバに行きました。  主にキューバ革命に関するところを見て回ったのですが、ヘミングウェイに関連する次のような所にも行ってみました。

①かってのヘミングウェイの家で、今ではヘミングウェイ博物館となっているところ(ちょうど改装中でした)。

②61年あまりの生涯で、ヘミングウェイが最も多く通ったと言われる、ハバナの酒場フロリディータ(フローズン・ダイキリが有名)。

③ハバナの酒場ラ・ボデギータ・デル・メディオ(モヒートが有名)。

④『老人と海』にも登場する、ハバナから東へ7マイルの漁村コヒマル村にある、レストラン・バーのラ・テラサ。

4.本の中で、それらの建物や店がイラスト付きで紹介されていました。  思わず、懐かしさが込み上げてきました。  

 明日は都合により、ブログはお休みです。  金曜日にお目にかかります。

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ボブ・マーリーとチェ・ゲバラ

1.先日、テレビでボブ・マーリーのドキュメンタリー番組を見ました。  ボブ・マーリーは1945年ジャマイカで白人の父と黒人の母の間に生まれます。  世界的なレゲエ・ミュージシャンです。

2.ウィキペディアで検索した年譜の一部です。

 『1976年12月3日、 政治闘争に巻き込まれ、狙撃され重傷を負い、亡命を余儀なくされる。  1970年代後半のジャマイカは、マイケル・マンリーが率いるPNPと、エドワード・シアガが率いるJLPとの2大政党の対立が激化し、しばしば抗争が勃発していた。

 1979年 ジャマイカに舞い戻り、「One Love Peace Concert」を開催する。  このとき、コンサートを見に来ていたマイケル・マンリーとエドワード・シアガの2人の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせている。  (中略)

1981年5月11日 脳腫瘍を患い、アメリカ合衆国フロリダ州の病院で死去。  36歳没。  同月21日、首都キングストンにて国葬。』

3.番組では、ボブ・マーリーの歌った「One Love」という曲が、ジャマイカにおける「One Love Peace Concert」開催や、南アフリカの人種差別政策「アパルトヘイト」解消に、大きな影響を与えたことを取り上げていました。

4.また、昨年の10月10日のブログで書いたチェ・ゲバラが、最近よくマスコミに登場します。  今月、朝日新聞出版から、奥さんのアレイダ・マルチさんの書いた『わが夫、チェ・ゲバラ』の日本語訳が出版されました。

5.長女のアレイダ・ゲバラさんも、今月の14日、民間団体などの招きで初来日しました。  昨日は、みのもんたさんが朝の番組でインタビューしていました。  

 キューバ革命直後の1959年、ゲバラは使節団団長として来日します。  大阪滞在中、こっそりホテルを抜け出し、夜行列車で広島を訪れ、原爆慰霊碑、原爆資料館、原爆病院などを見てまわったそうです。  今回、アレイダさんも広島を訪れました。  インタビューで、「どんな理由であれ、原爆投下は人道的に許されるべきではない。」と強く語っていたのが印象的でした。

6.ゲバラは1967年、ゲリラ活動を行っていたボリビアで政府軍につかまり、処刑されました。  享年39歳です。

 ボブ・マーリーの番組で、ボブ・マーリーとチェ・ゲバラの二人は、世界平和にもっとも影響を与えた、20世紀の南米人だと、コメンテーターが語っていました。  

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魔法の言葉

1.指導員の山辺から、五日市剛(いつかいちつよし)さんの講演筆録『ツキを呼ぶ魔法の言葉』を貸してもらいました。

2.五日市剛さんのプロフィールです。

 『昭和39年9月生。  国立宮城高専を卒業後、豊橋技術科学大学に編入学。  その後、アメリカのマサチューセッツ工科大学へ留学。  工学博士。  現在、企業経営の傍(かたわ)ら、数社の研究顧問を務めており、新規事業および新技術の創出に関わっている。  

 26歳の時のイスラエル旅行での出会いがきっかけで人生がガラリと好転。  ツキを呼ぶ魔法の言葉を知ったことが原因と氏は語っている。』

3.イスラエルでの、あるおばあさんとの出会い、について話された部分を紹介します。

 『どうしても、イスラエルに行きたいなぁ~と思い始め、とうとう湾岸戦争が起こった年の冬に、イスラエルに行くことになったのです。  (中略)

 結局、どのホテルもみんな閉まっていて、営業しているホテルは見つからなかったんですね。  もう、(先ほど声をかけて誘ってくれた)おばあさんのところへ行くしかないなぁ~と思って、勇気を振り絞って、おばあさんの家に行ったんですね。』

4.五日市さんはそのおばあさんから、『ツキを呼ぶ魔法の言葉』を教えてもらったそうです。  おばあさんの会話を抜粋し、番号を付して紹介します。

 『①ツキを呼び込む魔法の言葉があるのよ。  これさえ唱えていれば、誰でもツキっ放しになるわよ。  (中略)  誰でもよく使う言葉なんだけど、二つあってね。  一つは「ありがとう」、もう一つは「感謝します」  ねっ、簡単でしょ。  (中略)  

②「ありがとう」という言葉は、そうね、なにか嫌なことがあった時に使ったらどうかな。  (中略)  不幸は重なるというけれど、それは間違いなくこの世の法則なのよ。  だけど、そこで「ありがとう」というとね、その不幸の鎖が断ち切れちゃうのよ。  それだけでなく、逆に良い事が起こっちゃうの。  (中略)

③何か良いことがあったら、「感謝します」と言ってみてはどうかな。  (中略)  この言葉はとても便利でね。  たとえまだ起こっていない未来のことでも、イメージしながら言い切っちゃうと、本当にそうなってしまうのよ。  (中略)

④言ってはいけない言葉があるのよ。  言っちゃうと、ツキが吹っ飛んじゃうの。  まずはね、汚い言葉。  「てめ~」とか「死んじまえ」とか、「バカヤロー」、「クソッタレー」とかね。  そういう汚い言葉を平気で使う人というのはね、そういう人生を歩むのよ。  (中略)

⑤それからね、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ。  (中略)  

⑥それに、人を怒ってもツキは逃げて行っちゃうわ。』

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桃仙ハンコ(写真付き)

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1.写真は、私の認め印の、印影(いんえい)です。  10年ほど前、友人の北條さんに紹介されて、世田谷三宿の山本印店で、実印・銀行印と一緒に作っていただきました。

2.先日、北條さんの古くからの友人の宮野さんに『不思議なハンコ屋-山本印店物語-』(山本桃仙著 マキノ出版刊)という本を頂戴しました。

3.その本の、山本桃仙(とうせん)先生の紹介文です。

 『昭和14年、福岡県生まれ。  5歳、10歳、11歳で臨死体験をし、生還のたびに不思議な能力を身につける。  12歳でハンコの世界に入り、修行の末、昭和38年に山本印店を開業。  以来、45年にわたって、手彫りのハンコを作り続けている。  そのユニークで個性的なハンコは、日本全国・各界に多くの愛好者を呼び、「不思議なハンコ」として都市伝説の一つとなっている。』

4.興味深かった内容を、番号を付して紹介します。

 『①どうやら巷(ちまた)では、「山本印店でハンコを作ると、運勢がよくなる」という噂が、まことしやかにささやかれていて、いわゆる都市伝説の一つになっているようなのです。  (中略)  運勢をよくするハンコなどというものは、この世には存在しないのです。  (中略)  ただ一つ、長年ハンコを作り続け、おおぜいのお客さんと話をしてきて、不思議なことがちょっとわかる僕からいわせていただくと、こんなふうには考えられると思います。  「その人の運勢が変わってきたときに、僕のハンコを作りにくるようになっている」と。

②僕は、人間は自然の流れの中で、自然にまかせて生きるのが、人生を上手に生きるためには大切なように思います。  「正しいものは自然の流れの中にしか存在しない」からです。  (中略)  それでは、「自然にまかせる」、別の見方をすれば「自然に逆らわずに」生きるにはどうすればよいのでしょうか。  それは「がまんをしない」ことです。  (中略)  もちろん、なんでもかんでも、がまんせずにやりたい放題というわけにはいきません。  自分の中でバランスをとりながら、「がまん」という呪縛(じゅばく)から自分を解放しましょう。

③自然の流れにまかせて生きるためのメッセージは、見えない世界の住人である、ご先祖を大事にすることで得られます。  日本のすばらしい習慣である墓参りで、また神社仏閣で、ただただ手を合わせ、見えない世界に敬意を払ってください。  きっとみなさんの心に響くメッセージを受け取れることでしょう。』

 よい週末を。

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三鬼陽之助さん

1.20代の頃、大山総裁から次のように言われたのを思い出します。

 「男の人生は舞台だ。  

 国立劇場のような大きな舞台で生きるか、どさ回り(地方回りの意)のような小さな舞台で生きるかは自分自身が決めるんだ。」

 私自身の生き方に影響を与えた言葉の1つです。

2.『千年語録』(サライ編集部編 小学館刊)という本で、三鬼陽之助さんの「舞台」についての話を取り上げています。  

 2002年に95歳で亡くなった、経済評論家の三鬼さんは、雑誌『財界』を創刊し、「財界のご意見番」として、終生現場主義を貫いたそうです。

3.三鬼さんの「舞台」の話を紹介します。

 『人間は「舞台」に立った時だけがその「人」なんだと思うようになりました。  

 福澤諭吉の言葉ですが、彼は「舞台」に立つ前を問題にしてはいけないという哲学を持っていました。

 これを実践していたのが本田宗一郎(HONDAの創業者)です。  彼は仕事の前は破天荒(はてんこう)というと聞こえはいいが、とにかく無茶をする男なんです。  ところが、仕事という舞台に立つと一変する。  それは見事なものでした。』

4.三鬼さんは「自分の仕事」についても、次のように語っています。

 『旅行に行っても、食べ物にも景色にも興味ないし、芸術のことも何もわからない。  人が驚くほど何も知らない。

 仕事以外に趣味を持てと言われて久しいですね。  今や趣味のひとつも待たない人間は馬鹿のように言われる。

 しかし、仕事が趣味の人がいてもいいはずです。  生涯かけて取り組んできた仕事を楽しみながら、今も続けていられる、至福(しふく)の人生です。』

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(17)昭和55年 大賀雅裕

1.昭和55年12月、第3回首都圏交流試合が行われます。  前年末の第1回では大西・湯城・石川の城西の3選手がベスト3を独占したのですが、6月に行われた第2回では水口・松下・増田と石川支部にベスト3を独占されてしまいました。  そういう意味においては雪辱戦です。  ただし、今回は石川支部からの出場はありませんでした。

2.城西同門の大賀雅裕と湯城正弘が準決勝で当たり、大賀が決勝に勝ち上がります。  もう一方の山からは早大同好会の岸田選手を破って、城南の堺貞夫選手が決勝進出しました。  

 堺選手は157センチ、60キロと小柄ですが、太気拳を取り入れた稽古で鍛えた、腰を落とした構えと受けのうまさで、この後もさまざまな試合で城西の選手は苦しめられることになります。  昭和61年の第17回全日本大会4回戦で、初優勝を飾った松井館長と当たり、再延長戦まで戦った試合は名勝負として、今でも記憶に残っています。

3.決勝では大賀が堺選手に判定勝ちし、支部としても前回の雪辱を果たします。  大賀は鴨志田(現・茨城常総支部長)と高校の同級生で、ともに昭和54年の春、緑帯で茨城支部から移籍してきました。  調理師学校を卒業し、和食関係に就職していたのですが、前回の交流試合で体の大きな黄帯の選手に押されて判定負けし、直後に退職し、空手に専念していました。

4.大賀は、首都圏交流試合・優勝3回、第1回ウェイト制大会・軽量級優勝、体重無差別の第17回全日本大会・6位入賞、などの実績を残します。

 私が今まで指導した選手の中で、道場でお互いに力を抜いて行うスパーリングのうまさでは、増田章と双璧(そうへき)です。  先日、私の父の通夜で久しぶりに会い、森善十朗や鎌田翔平らの若手選手に紹介しましたが、天才肌という面では善十朗と通じる部分があるかもしれません。

5.後に大賀は私のやっていた三軒茶屋道場を引き継ぎ、城西の分支部長を務め、指導者としても能力を発揮します。  全日本大会やウェイト制大会で、三軒茶屋道場から田村悦宏、田口恭一、川本英児らのチャンピオンを始め、上位入賞者が続出しました。  そして、その多くが現在は支部長を務めています。  

 大賀は今、極真会館を離れ、Jネットワーク代表としてキックボクシングの普及に力を注いでいます。

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鈴木陽二コーチ

1.5月17日の朝日新聞で、ジャーナリストの生島淳さんが、競泳の鈴木陽二コーチについて書かれていました。  セントラルスポーツの鈴木コーチ(58歳)は、1984年のロサンゼルス五輪以来、毎回、教え子を五輪の舞台に送り込んできました。  1988年ソウル五輪では鈴木大地選手が100メートル背泳ぎで金メダルを獲得しました。  北京五輪にも背泳ぎの森田智己、伊藤華英の両選手が出場します。

2.抜粋して、番号を付して紹介します。

『 ①競泳の世界を長年、観察していると、いわゆる「一発屋」もいれば、鈴木コーチのように20年以上も実績を残し続ける指導者もいることに気づく。  その違いはどこから生まれるのか。  

 「大地が初めて五輪で泳いだ時に思ったのは、五輪に参加するだけじゃ面白くないということ。  自分が育てた選手で本当の勝負をしたいと思ったのが指導の原点です。  それが20年続きました。」

②最近、選手にどう自信を持たせるか、その重要性を改めて感じているという。  

 「コーチングの基本は、選手の心に火をつけること。  そのためにどうするのか。  基本的には長所を見て、ホメる。  そうしないと自信を植えつけられないし、選手もやる気が出ない。」  (中略)  

 「これまでの日本は、どちらかというと人の短所を指摘して、それを矯正することで向上をめざしてきたが、そのスタイルでは限界があるかもしれない。」

③選手を他者と比べてはダメだと感じている。

 「ついつい、他の選手と比較をしがちなんです。  ただ、他人と比較して得られた自信はもろい。  大切なのは過去の自分です。  過去の自分を克服していれば、それは間違いなく選手の中で自信につながっていく。  横軸での他人との比較ではなく、縦軸で考えなければいけない。」

④欠点に目をつぶっているわけではない。  そこから目をそらしていては、本当の自信は生まれないからだ。

 「五輪の舞台では、絶対にごまかしはきかない。  そのためには、欠点に集中的に取り組む時間が必要で、それを克服するためにも、土台となる選手の自信が不可欠なんです。」』

3.最後に、生島さんは次のようにまとめています。

 『長所と欠点を凝視(ぎょうし)しつつ、いかに自信を植えつけるのか。  話を聞いていると、コーチとは技術を伝達する仕事ではなく、人間の力を伸ばす仕事であると実感する。』

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佐川幸義先生

1.『孤塁(こるい)の名人 合気(あいき)を極めた男・佐川幸義』(津本陽著 文芸春秋刊)を読みました。  大東流合気柔術・宗範(そうはん)佐川幸義先生の伝記です。

2.身長163センチと小柄な佐川先生は、80歳を超えてなお、巨漢の武道家をわずかな身動きによって、宙に飛ばしたそうです。  昭和初期の謎の武道家といわれていた大東流の名人・武田惣角(そうかく)先生の弟子です。  相手の力を抜いて無力にしてしまう『合気』の唯一人の伝承者(でんしょうしゃ)だそうです。

3.「若いときに強くても、老いれば強さを失う」というのが一般的な認識だと思います。  その中で、高齢になってますます強さを発揮する「名人」とよばれる武道家の話を聞くことがあります。  江戸時代後期の剣客・白井亨(しらいとおる)先生については、かって本で読みました。  また、意拳の王向斎(おうこうさい)老師については、太気拳の澤井健一先生から直接話をうかがったことがあります。  武田先生や佐川先生はそんな名人の一人なのでしょう。

4.抜粋し、番号を付して紹介します。

『①小柄な惣角が30貫、40貫の柔道家を子供のように扱えるのは、逆極め技の天才だからであると武道家たちは思い込んでいる。  技をきめる前に、ひそかに合気によって相手の力を抜いていることは、誰にも分からない。

②幸義は合気技を向上させるために、この頃(30歳の頃)から独特の鍛錬法を毎日実行するようになった。  (中略)  毎日の日記の末尾には、鍛錬項目と、その回数が書きとめられている。  2~3時間をついやし、「振り棒1000回、腕立て伏せ500回、大ハンマー200回、四股(しこ)500回」などの記載がある。

③体の鍛錬を1日休めば、翌日は2日分やる。  (中略)  素振りに使う2キロほどの八角棒は、年間30万回振る。  それを30年、40年と長年続けてみて、鍛錬の効果がようやく分かってくるというのである。  人間の体の深奥(しんおう)に眠っている能力が、ようやくめざめてくるのだ。  筋肉は70歳まで発達を続ける。  70歳まで鍛えておけば、80歳を過ぎてもまったく、体力が衰えることはない。

④佐川先生談 「体を鍛えているうちに、いつのまにかこれまでやったこともない技が出てくる。  何回もやるうちに、新しい技が敵を倒すために効果的であるということが分かる。  そこで、なぜかという疑問が出てきて考えるうちに、理論が分かってくる。  技が理論よりも先行してあらわれてくるものだ。」

⑤高弟の木村達雄氏談 「最近、先生が使っておられた鉄ゲタ、鉄槌(てっつい)、鉄棒、鉄パイプの槍を見せていただいたがその重さに驚いた。」  (中略)  このとき先生は92歳であった。  先生は非常な高齢でありながら、頭脳明晰(めいせき)であるのは、この鍛錬のおかげだというのである。

⑥佐川先生談 「合気の原理はごく簡単なものですよ。  皮膚の下の筋肉の動きですからね。  それで合気をかけるんです。」 』

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(16)昭和55年 澤井健一先生

1.第12回大会が終わってから、太気拳(たいきけん)の澤井健一先生が、道場や私の自宅に来られるようになります。

 澤井先生は第二次世界大戦時に、中国の北京で意拳(いけん)の創始者・王向斎(おうこうさい)老師の指導を受けられ、戦後、帰国されてから太気拳(正式には太気至誠拳法)を創始されました。

2.盧山初男師範が以前から澤井先生について太気拳を学ばれていました。  私も、昭和50年から盧山師範に太気拳を指導していただいていました。  

 昭和55年ころから、埼玉県の西川口にあった稽古場所に、月に1回程度、澤井先生が指導に来られるようになります。  稽古が終わった後、近くのファミリーレストランで食事をしながら、澤井先生のお話をうかがうのも楽しみでした。  

3.その稽古に、ある時期から大西も一緒に連れて行くようになりました。  そんなある日、澤井先生から連絡があって、代田橋の道場で指導していただけることになります。

 立禅・這(は)い・揺り・練りといった太気拳の基本練習よりも、つかまれた手を瞬間的に外したり、腕関節をきめる『逆手(ぎゃくて)』を多く教わりました。

 道場での稽古の後、自宅で食事をしていただきました。  当時、澤井先生は糖尿病だとおっしゃられていましたが、私や大西と一緒にビールを飲んで、楽しくお話しをされていました。

4.ある時、澤井先生がアライグマの大きなぬいぐるみを抱えて道場に見えられたことがあります。  私の娘へのプレゼントだということなので、当時1~2歳だった娘を連れてくるよう、自宅に連絡しました。  以前にも会っていたはずなのですが、娘は澤井先生を見るなり、泣き出してしまいました。

 澤井先生は木刀を杖(つえ)代わりに持ち歩き、眼光鋭く、ひげをはやしていたので、怖く見えたのだと思います。  本当は大変やさしい先生でしたので、小さな子供のこととはいえ、失礼なことをしました。
 
5.澤井先生は昭和63年、84歳で亡くなられます。  お見舞いにうかがったことや、大西と一緒にお通夜に行ったことを思い出します。

 先生が亡くなられてからは、王向斎老師の孫弟子に当たる孫立先生に、月に1度来ていただき、生徒とともに意拳の指導を受けていた時期が2年ほどあります。

 今でも月曜・金曜日の自分の稽古では立禅・這い・揺り・練りを行いますし、毎朝20分間の立禅は日課になっています。  先日行ったセドナでの朝の立禅は最高でした。

 よい週末を。

 

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マイケル・J・フォックスさん

1.昨日の深夜、NHK・BS2で「アクターズ・スタジオ・インタビュー」を放送していました。  「アクターズ・スタジオ・インタビュー」はジェームズ・リプトンさんが、演技や演出を学ぶ学生たちの前で、第一線で活躍中の映画人にインタビューする名物番組です。

2.昨日のゲストは、かって「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に主演したマイケル・J・フォックスさんでした。  私は最初、マイケルさんが貧乏ゆすりみたいに体を動かしながら話すのを気にしながら見ていました。

 途中、司会のジェームズさんが体調について質問したので、やっと思い出しました。  マイケルさんは30歳の若さでパーキンソン病を発症していたのです。

3.Yahoo!ヘルスケア で検索すると、パーキンソン病とは次のような病気です。

 『パーキンソン病は、脳の中の黒質にある神経細胞が減ることにより、ドパミンが減少するために起こる病気です。  ドパミンは、運動を円滑に行うように、脳からの指令を筋肉に伝える神経伝達物質です。  この命令がうまく伝わらなくなるので、パーキンソン症状と呼ばれる運動の障害を生じます。  なぜこの病気が起きるのかはまだ不明です。  (中略)

 パーキンソン病は、中高齢者に発症し、患者さんは10万人あたり100人以上はいるとされ、65歳以上ではさらに増加するといわれています。  高齢社会において、脳に関係する病気では、アルツハイマー病に次いで身近な病気といえます。』

4.ウィキペディアで検索すると、次のような人もパーキンソン病患者だったそうです。

 『アドルフ・ヒトラー 、江戸川乱歩、三浦綾子、岡本太郎、(とう)小平、山田風太郎、キャサリン・ヘプバーン、ビリー・グラハム、ヨハネ・パウロ2世、モハメド・アリ、E・H・エリック、小森和子、デボラ・カー』

5.ジョークを交えながら、人生や病気について前向きに語る、マイケルさんの姿に感動しました。

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セドナ(写真付き)

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1.5月3日から7日まで、アメリカ・アリゾナ州のセドナに行きました。  雑誌フラウの2005年10月号の別冊付録でセドナの写真を見て以来、かねがね行ってみたいと思っていました。

2.『聖なる土地の力』(マーティン・グレイ著 バジリコ刊)という本にセドナの紹介が出ています。  抜粋して紹介します。

 『アリゾナ州北部に位置するセドナのレッドロック(赤い岩)は、米国で最も美しい自然風景の1つだ。  セドナの渓谷の崖は、地質年代の異なる9層の岩盤でできていて、砂岩層の赤い色は、長い年月の間に酸化鉄によってついたものである。  (中略)

 1940~50年代に、町は最初の急成長期を迎える。  ハリウッドが「ビリー・ザ・キッド」(1930年)や「アパッチ砦」(1948年)、「折れた矢」(1951年)などの古典的作品も含め、数々のウェスタン映画を、赤い岩山に囲まれたこの土地で撮影し始めたからである。  (中略)

 現在では、年間400万人もの旅行者がセドナを訪れる。  (中略)

 地元のツアーガイドたちは口々に、セドナ周辺には「ヴォルテックス」と呼ばれる地球のエネルギーが特に強く集中的に表れる場所がいくつかあると言う。  だが、地質学者たちは、そのようなことはないと強く反論している。』

3.成田空港からアメリカ西海岸のポートランドまで飛行機で約9時間、ポートランドからアリゾナの州都フェニックスまで同じく約2時間半、フェニックスからセドナまでは自動車で約2時間かかります。

 初めて見るレッドロックには感動しました。  地質学者の反論はあるかもしれませんが、私には何か特殊なエネルギーがあるように感じられました。

 一昨年のキューバに続き、呼ばれるようにしてセドナに行ってきました。  次は、イタリアのアッシジに行ってみたいです。

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三浦知良選手

1.サッカーの元日本代表、横浜FCの三浦知良選手が日経新聞のスポーツ欄に『サッカー人として』というエッセイを、週に1回書かれています。

2.三浦選手について、ウィキペディアでは次のように紹介しています。

 『世界各国のサッカークラブを渡り歩いた、日本プロサッカー選手の先駆け的存在。  特に、若手にとって手本とされるのは、その強烈かつストイックなプロ意識にある。  40歳を迎えても、その意識付けは全くブレることがなく、彼の存在そのものが「活きた手本」として、同じピッチでプレーする選手達へ、プロ意識の種を蒔(ま)く事になっている。』

3.5月9日のテーマは『頭の中が新鮮でこそ』でした。  抜粋して紹介します。

 『苦戦の理由を連戦の疲労だと言うのは簡単で、実際に疲れているだろう。  ただ、一番の問題は頭の中にあるんじゃないだろうか。

 選手は、「ゾーン」と呼ばれる精神的に最もハイな状態で臨むのがベストなんだけれども、みんなが常にそこに入っていけるわけじゃない。  試合途中で入れる場合もあれば、最初は入っていてもだんだん落ちていくときもある。  (中略)

 連戦が続くと、悪い意味で試合慣れして、緊張感はあっても新鮮味は薄れてくる。  肉体の疲れとは別な部分で頭が疲れて、動きを鈍らせる。  僕ら35歳を過ぎた選手だと肉体の疲労にウソはつけないけど、20代の選手は体よりも頭。  頭の中をリフレッシュさせるのが大事だ。  (中略)

 こんなに試合が続いて疲れちゃうよと思うのか、こんなにサッカーができてうれしいと思うのか。  特に連戦ではその差が大きく響く。』










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(15)昭和55年 第12回全日本大会

1.昭和55年11月、第12回全日本大会が開催されました。  私と一緒に、大西靖人が城西支部の生徒として初めて、全日本大会にエントリーします。

2.私にとっては、第6回、第9回、第10回、第11回大会に続き、5度目の全日本大会です。  

 1年半かけてウェイト・トレーニングに取り組み、ベンチプレスで137.5キロ、スクワットで200キロを上げるようになっていました。  1年半前の第11回大会出場時、78キロだった体重も85キロになっています。

3.Dブロック前半のゼッケン99番で、勝ち上がれば、三瓶啓二選手と4回戦で当たります。  

 1回戦は判定勝ちでしたが、2回戦は下段回し蹴りで一本勝ち、3回戦は下段回し蹴りと前蹴りの合わせ一本勝ちでした。  一本勝ちが続いたのは、ウェイト・トレーニングの効果だと思います。

 4回戦の三瓶戦は、再延長戦まで戦って決着がつかず、試し割り判定で三瓶選手の勝ちとなります。  三瓶選手はこの後も順調に勝ちあがり、初優勝を遂げます。

4.初出場の大西は、Aブロック前半のゼッケン25番で、一回戦で、前年の第2回世界大会で第8位に入賞した川畑幸一選手(現、近畿本部長)と当たります。  

 大西はよく「自分は一発勝負は強いですから」と言っていましたが、その言葉通り、延長戦で判定勝ちしました。  2回戦も延長判定勝ちします。

 3回戦の相手は竹和也選手(現、九州本部長)です。  竹選手に下段回し蹴りを効かされ、判定負けしました。

5.この大会に17歳で初出場し、第4位に入賞したのが、松井章圭館長です。  

 松井館長の試合は、それ以前にも東北大会や千葉大会で見ています。  体の柔らかさを生かした、華麗な蹴り技が印象に残っていました。

 大舞台・全日本大会での、高校生選手の活躍は衝撃的でした。  

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大横綱・大鵬

 昨日の日経新聞夕刊に、元横綱・大鵬の納谷幸喜(なやこうき)さんのインタビュー記事が出ていました。  大鵬は史上最多32回優勝の大横綱です。  抜粋し、番号を付して紹介します。

1.青春時代について・・・2度と今の若さはこないんだから、今のうちに一生懸命頑張って、何十年か後に振り返った時、あの時はつらかったなあ、今思えばおもしろかったなあ、と笑える思い出をつくる。  そういうために、一生懸命努力するんだよ。  若い時にしかできないことがあるわけだから。

2.還暦(かんれき)を迎えた時、思ったこと・・・人生は、今日やったから今日結果が出るというものではない。  相撲で言えば、入門した時からずっと努力と鍛錬を積み重ね、最後の最後にいい結果を生む。  普通の人は、今日やったことの結果をすぐ欲しがるけれども、そうではない。

3.相撲道とは、辛抱(しんぼう)強く何事にも耐えうる精神をつくる、という意味と同義語なんです。  相撲の稽古は毎日同じことの繰り返しで、つらいことおびただしい。  「さぼりたい」という気持ちとの戦いである。  それをコツコツと繰り返すことで、精神は鍛えられる。

4.相撲は瞬時に体が動く。  頭で考えていては遅い。  (中略)  だから言うんです。  相撲バカになれと。  バカになるとは、邪心(じゃしん)を捨てて相撲に打ち込むということ。  愚直に体を痛めつけて自分で体得しなければ、相撲は勝てない。

5.ふき掃除、洗濯など、一から修行して力士として人間として成長していく。  それが大事なこと。  その過程で、師弟愛、兄弟愛、さらに先輩、後輩のきずなが太いものとなる。

 よい週末を。

 



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安部芳明先生

1.青森の安部芳明先生のご指導を受けるようになって、数年が経ちます。  若い時には作曲家だった安部先生ですが、現在は気学の研究家です。  

2.数年前、安部先生と懇意にしている友人から、先生の著書をもらいました。  ところが、翌日食事をした別の友人も先生と懇意にしていることがわかり、そのご縁で先生にお目にかかることができました。  

3.阿部先生から2ヶ月に1度、『戯言(ぎげん=ふざけて言う言葉、の意)』と書かれた文章と、『格言』を送っていただいています。  5月・6月の戯言のテーマは「人生と四苦(しく)」でした。  A4の用紙6枚に書かれた文章ですが、その一部を番号を付して紹介します。

『 ①ブッタ(釈迦)が弟子達に、どう生きるべきかと語りかけた、スッタニパータという経典の一説に次のようにあります。

 〈 過去を追うべからず  未来を期待すべからず 〉  (中略)

 つまり、過去の幸・不幸を引きずってみても何の役にも立たず、ましてや、まだ実感する術(すべ)もない未来に、期待ばかりをして愛想する暇があったら、今やらなければならない事があるはずだと戒(いまし)めているのです。  (中略)

②神から与えられた命。  神から預かった命。  誰にも、この命を粗末にする権利はないのです。

 神より与えられた苦しみは受け入れるとしても、人間が作る苦しみを背負ってはならないのです。  (中略) 

③こうして四苦八苦を改めて記述してみて、人間は何故これほどの苦しみを味わい続けなければならないのかと、少しばかり神を恨(うら)みたくもなりますが、こんな瞬間に神の声が聞こえてきます。  

 「楽の方は忘れてしまったのか!」とのお叱りの声です。

 苦の方にばかり人間は強く感じ過ぎ、楽しい生活は《当然》とばかりに、この苦とは対比させないものなのです。

④論語の一説にある、六中観(ろくちゅうかん)の一行、

 〈 苦あれば楽あり、楽あれば苦あり 〉  

は、必然の事です。  あらゆる事がこうして対照的である以上、私達は一生を苦しみと同じくらい楽しみを味わっているのです。

⑤苦しい病気が全快した時の爽快感(そうかいかん)、求めるものが叶(かな)った時の喜び、愛(いと)しき人との再会の悦(よろこ)び、美味(おい)しい食事を楽しむ喜び、

そして、過ぎ去った時を引きずらず、未来に過度な期待もせず、今を精一杯生きる、これが人生の四苦を受け入れるコツなのです。 』

 

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谷川健一さん

1.日経新聞の今月の「私の履歴書」は、民俗学者の谷川健一さんが書いています。  ちなみに「私の履歴書」は1人の方が、月初から月末まで毎日書かれます。  つまり、月によって違いますが、28~31回の連載になるわけです。

2.5月1日の第1回目のテーマは、3月28日の私のブログでも紹介した『塞翁が馬(さいおうがうま)』でした。  箇条書きにして、内容を紹介します。  「・・・」の前が「不運に見えた事実」、「・・・」の後が「長い目で見た場合の幸運」です。

①幼時から病気がちであり、青年期にも療養し、病気には中年期までしつこくつきまとわれた。・・・戦時中、病気のために兵役を免除されて、戦地に赴(おもむ)かないで済んだ。

②40代の半ば結核が再発し、平凡社への勤務続行を断念し、筆1本の物書き生活を選ぶことにしたが、生活の不安があった。・・・自分の「全集」(全24巻)の刊行に立ち会うことができた。

③50歳間近くなって物書きになった。  終列車の最後尾の車輌に飛び乗って、やっと間に合ったという思いであった。・・・1962年に亡くなった民俗学の巨人・柳田国男の、稲作偏重(いなさくへんちょう)を真っ向から批判した『青銅の神の足跡』を1979年に上梓(じょうし・・・書物を出版すること)した。  その頃になると、柳田の威を借りた弟子たちの力もおとろえ、黙殺されることはなく、かえって賞賛される始末であった。

④1年のうち、3~4ケ月を旅ですごす日々を、1970~80年代の終わりにかけて、20年間すごしてきたが、その民俗調査は、大学や中央官庁や財団の援助を一切受けない、貧乏旅行であった。  また、いかなる団体にも属したことはなく、民俗学会にも入っていない。・・・昨年秋、文化功労者に選ばれたが、その主な理由は、独自の民俗学を樹立したという功績による。  在野の研究者として、独学者の孤立の道を歩んだことが、受賞につながったともいえる。

3.最後に、谷川さんは次のようにまとめています。

『 私の場合も「塞翁が馬」の故事通りで、当座は不運と見えたものが、長い目でみると、むしろ幸運だったと思う場合が少なくない。

 この年(現在、86歳)まで生きながらえると「人生は最後まで勝負の決まらないマラソンのようだ」と、つくづく思う。』

 次回は、5月8日の木曜日にお目にかかります。  よい連休を。  

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三原脩監督

1.日経新聞のスポーツ欄で、野球評論家の豊田泰光さんが『チェンジアップ』という連載エッセイを書かれています。  今日の朝刊では、豊田さんが在籍していた西鉄ライオンズ(現在の西武ライオンズ)の監督だった三原脩(みはらおさむ)さんのことが取り上げられていました。

2.ウィキペディアで三原さんを検索すると、次のようなことが書かれています。

『 見る者の度肝(どぎも)を抜く選手起用・戦術で、数々の名勝負を演出、「魔術師」「知将」の異名(いみょう)をとった。

 選手の調子・ツキを見逃さない慧眼(けいがん)の持ち主で、時に周囲の予想を超える好采配(こうさいはい)と数々の逆転劇で「三原魔術」と驚嘆(きょうたん)を受けた。

 リーグ優勝6回、日本一4回を達成。   監督としての3,248試合出場はプロ野球記録である。』

3.今日の『チェンジアップ』のテーマは『人を動かす演説』です。  抜粋して紹介します。  番号は私が振りました。

『①日本人監督に、言葉で誰かを動かせる人が少なくなったようだ。

②監督の演説で忘れられないのは、西鉄時代の三原脩監督の「今日は負けてもいい」だ。

 1956年、対巨人の日本シリーズ第1戦。  後楽園球場のロッカーで、我々は監督の威勢のいい言葉を待っていた。

 このシリーズは、巨人を追われた三原監督のあだ討ちの場だった。  ところが監督は「今日は負けていい。  じっくり相手を見なさい」と言った。  拍子抜けだったが、その言葉の意味にあとで気づいた。

③初戦は落とした。  しかし、負けてOKと思っていたので慌てなかった。  川上哲治さん、別所毅彦さんら、主力の高齢化の様子もうかがえた。  西鉄は第2戦から力を発揮して勝った。  もし、第1戦であのまま「勝つぞ」と入れ込んで負けていたら、どうなったか。  (中略)

④西鉄のあと、何人もの監督に仕えた。  話のうまい人はいたけれども、心に響く言葉を持つ人は少なかった。

 その経験からすると、よい演説はまず手短なこと。

 そして、自分の言いたいことを言うより、まず、聞く側の気持ちに耳を澄ますこと。  話す力とは、すなわち聞く力のことで、三原監督の言葉は人の胸中を読み切ったところに効能(こうのう)があったのだ。』

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2008年04月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年06月