2008年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年07月

(21)昭和57年 ビデオ研究

1.昭和55年4月に代田橋道場をオープンし、自宅も道場から歩いて5分くらいの所に引っ越しました。  そのころから、自宅で大西を始めとする指導員や選手と一緒に、ビデオを見て研究するようになります。

2.テレビ放映された全日本大会や、ビデオカメラで録画した首都圏交流試合のビデオなどを見ました。  ビデオの普及は、極真空手の技術進歩にとても大きな貢献をしたと思います。

3.ビデオを見るに当たって次のようなことを心がけました。

①選手と一緒に見る際に、私が解説を入れながら見るようにしました。  そのことによって、選手の理解が深まると思ったからです。

②特に、一本や技ありのシーンは繰り返し、時にスローモーション画像を織り交ぜて見ました。   その中に、新しい技やコンビネーションのヒントが隠されているからです。

③自分がこうなりたいと思う選手の試合は、すべての展開を記憶するくらいに、個人個人が見るように勧めました。  当時は『頭が痛くなるくらいに見るように』と話していました。

④キックボクシングやボクシングなど、他の競技のビデオも見るようにしました。  技術的に学ぶことや、やる気をもらうことが多いからです。

4.かって、城西が極真の技術進歩の最先端を行っている、と自負している時期がありました。  道場全体でそれだけの研究を、質量ともにしていたのではないかと思います。  現在の城西について言えば、残念ながら、国内外の他道場の後を付いて行っているような気がします。

5.先ごろ将棋の名人に復帰した、羽生善治さんのインタビュー記事が、朝日新聞の6月28日夕刊に出ていました。  羽生名人の言葉を紹介します。

 『ここ10年は、今までの将棋の歴史のなかで一番変化が大きい時代。  その中で、謙遜でなく、自分自身は決してトップランナーではなかった。  いかにして追いつき、新しい感覚を身につけるかに忙しかった。  将棋の鉱脈の深さには本当に驚きました』

 天才、羽生名人にしてこの謙虚さです。  私たちも、その姿勢に学ぶ必要がありますね。

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仕事漬け

 仕事漬けの1週間でした。  資料作り、ミーティングの連続でした。  

 結局、ブログは月曜だけです。  スミマセン。  

 普段、現場仕事は社員に任せて、自分ではあまりしないのですが、年間数回、こういうことがあります。

 何か自分でやらなければいけないような気がするんです。  でも、お酒はちゃんと飲んでいました。

 ブログも、来週から更新できると思います。

 これから稽古です。  よい週末を。

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坂口泰監督

 日経新聞夕刊で、6月16日から3日間にわたって、中国電力陸上部の坂口泰(さかぐちやすし)監督を取り上げていました。  抜粋して、番号を付けて紹介します。

『1.選手とひざを詰めて話し込むかと思えば、時に放任を決め込む。  坂口にとって、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論も、沈黙も、「結局、やるのは自分」と選手に悟らせる手段にすぎない。  そうやって育ててきた佐藤敦之と尾形剛が、北京五輪のマラソンの出場権をつかんだ。  2001年エドモント大会から4度の世界選手権、そしてアテネ、北京と続く2度の五輪のマラソンに絶えず教え子を送り込んでいる。  アテネ五輪では油谷繁が5位に入った。

2.佐藤敦之の練習量は半端ではなかった。  (中略)  当然ながら衝突もした。  中国・昆明での合宿中。  300メートル走を10本というきついメニューをこなそうとした佐藤に、坂口は「違うだろ。  それがいつもの失敗の原因なんだ」と戒めた。  佐藤には体調と相談なしに強い負荷をかけるトレーニングをし、敗れたレースが何度もあった。  「マラソンはやらなきゃダメだが、やりすぎてもダメ。  同じ体調なんて二度とない。  そこが難しい」と坂口。  佐藤には手取り足取りの指導をやめた。

3.それから2年。  佐藤に明らかな変化が表れている。  北京五輪の代表選考会を兼ねた昨年12月の福岡国際マラソンを前に、佐藤は「疲れているときに無理してやっても仕方がない。  良い状態にしてからガツンとやればいいと今は思える」と話した。

4.坂口には、節目に選手の力を試す過酷な練習メニューがある。  通称「20プラス20」。  1キロを3分5~10秒というほぼマラソンの本番ペースで20キロ走り、間髪(かんぱつ)入れずに20キロをもう1本。  それも、1度ペースを落としてから再び上げる設定だ。  「30キロくらいで苦しくてクラッとしますよ」と坂口は笑う。

5. 尾形剛は、昨夏の大阪世界陸上の前に、このメニューをこなしている。  その走りを目にして、坂口は「本番も大丈夫」と手応えを感じた。  実際、尾形は酷暑の中、日本人トップの5位と健闘し、北京五輪への切符を早々と手中にした。  

6.このほか、40キロ以降にぐんとスピードを上げる「40キロプラスアルファ」など、坂口の“引き出し”には選手に自らの限界を意識させるメニューが詰まっている。』

 土日も事務所で、今週末が提出期限の資料作りでした。  明日以降、ブログはお休みさせていただくかもしれません。  スミマセン。

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悲観は気分、楽観は意志

1.20年ほど前、東洋紡元会長の宇野収さんを取り上げた新聞記事で、『悲観は気分、楽観は意志』という言葉を見つけました。

2.似たような言葉をいくつか紹介します。

①「悲観主義者はすべての好機の中に困難を見つけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす」・・・額賀福志郎財務相が信条とする、ウィンストン・チャーチルの言葉(6月19日、日経新聞夕刊)

②「冒険のリーダーの条件は、とにかく明るいことさ。  死にそうなピンチでも冗談言ってるくらいにね。  機嫌が悪いやつのそばにいると、不愉快でしょう。  山ではカラ元気も必要なんだよ」・・・プロ・スキーヤー、冒険家、三浦雄一郎さんの言葉(日経ベンチャー07年2月号)

③「上智大学のアルフォンス・デーケン先生が言われた、『ユーモアとは、たんに楽しいこと、面白くおかしいことではない。  苦悩や落胆を味わった末、「にもかかわらず笑う」。  これが真のユーモア精神です』というお言葉にははげまされます。」・・・シャンソン歌手、石井好子さんの言葉(『千年語録』小学館刊)

④「自分の気持ちのいい時だけは気持ちよく応接できるけれども、少しでも心の中に暗いものがあると、もうすぐその応接の上にも非常な相違が出てくるというのが、世の中の多くの人のありさまでしょう。 
 結局、努力ですよ。  常に明るく朗らかに、生き生きとして何事にも応接するという気持ちを作る事は。」・・・中村天風先生の言葉(『中村天風一日一話』PHP研究所刊)

 それでは、よい週末を。

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カルロス・ゴーンさん

1.6月14日の朝日新聞に日産自動車の会長兼社長、カルロス・ゴーンさんのインタビュー記事が載っていました。  テーマは「問題解決」です。  抜粋して紹介します。

ーー「かわいい子には旅をさせよ」といいます。  なぜですか。
「人生は問題解決(problem-solving)の連続だからです。  挑戦と困難は常にあり、問題は多様化します。  1つ解決しても、また次が来る。  1つ1つ解決して進み続けることで、立派な大人になり、優れたビジネスパーソンになるのです。」

ーー正面突破するしかない?
「もし、問題を避けて通ろうとすれば、同時にたくさんのチャンスを逃すことにもなる。  (中略)」

ーー若いときの苦労は買ってでもしなさいと。
「それこそが教育の本質ではないでしょうか。  教育とはABCや123を暗記することじゃなく、問題解決を学ばせる場なんです。  問題に直面して、衝撃を受けるのではなく、『人生につきものだ』と冷静にとらえ、あきらめず、客観的に対処する人間を育てることだと思います。」

ーーなるほど。
「人生は問題解決の連続であると理解する。  これが若者への大事な教訓です。  頭が良くても、最終的に失敗する人がいるのは、問題を回避してしまうからです。  どんなに知識が豊富でも、人生はゲームで楽しいことばかりだと思っていたら悲惨です。  (中略)  失敗してもいい。  失敗から学ぶこともあるのですから。」

2.武道やスポーツの試合も、人生と同じことが言えると思います。  試合の途中では、必ずと言っていいほど、ピンチに遭遇します。  ですから、選手の教育とは、カルロス・ゴーンさん風に言えば、「ピンチに直面して、衝撃を受けるのではなく、『試合につきものだ』と冷静にとらえ、あきらめず、客観的に対処する選手を育てること」です。

3.テレビで、全米オープンゴルフ選手権を見ましたが、優勝したタイガー・ウッズには感動しました。  4月に左ひざを手術し、2ヵ月ぶりの復帰戦で、歩くのも痛そうでした。  その中で、最終日・プレーオフ両日の土壇場18番ホールで追いつく、勝負強さには鳥肌が立ちました。

 国内の将棋名人戦でも、羽生善治二冠が4勝2敗で勝ち、5期ぶりに名人に返り咲きました。  私は将棋がよく分からないのですが、第3局では、50年に1度とも100年に1度とも言われるような大逆転勝ちを収めたそうです。

4.タイガー・ウッズも羽生さんも、並みのプレーヤーなら負けてしまうような、絶対絶命の場面をひっくり返すから、スーパースターと呼ばれわけです。

 願わくば、城西からも、多くの人々を感動させるような、逆境に強い、新たなスーパースターが生まれますように。

5.昨日も書いたように、明後日までに書き上げなければならない報告書があります。  明日はお休みさせていただきます。  間に合えば、明後日お目にかかります。  


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午後10時38分

1.変なタイトル付けましたが、今、午後10時38分です。  事務所で一人です。  今日は、一日中バタバタしていました。

2.明日の午前中は健康診断です。  私の苦手な胃の検診があります。  一昨年はバリウムを飲むレントゲン検診でしたが、異常な下痢になりました(汚い話題ですみません)。

3.それに懲りて、昨年は胃カメラを飲みましたが、気絶しそうになりました。  どうも、目をつぶると胃カメラが入りにくいようで、看護婦さんからしきりに「画面を見ていて下さい」と言われるのですが、苦しくてそんな余裕はありません。

 帰りがけに看護婦さんが「胃カメラで撮った写真を持って帰りますか?」と聞くので、「ホルモン焼きが食べられなくなりそうなので、やめときます」と答えました。

4.明日は2年振りでバリウムです。  前回の反省から、明日は仕事がらみのアポイントは入れていません。  ワープロで打たなければならない報告書があるので、終わった後、元気だといいのですが。

 また明日お目にかかります。  おやすみなさい。

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第25回ウェイト制大会

1.2日間のウェイト制大会が終わりました。  軽量級の西村直也は初戦で判定負け、軽重量級の森善十朗と重量級の鎌田翔平はベスト8でした。  それぞれ気付いたことをコメントします。

2.西村は1試合だけでしたけど、よくやったと思います。  本戦で3対0の判定負けでしたが、引き分けに近い内容だったと思います。  44歳という年齢で、城西地区の選抜試合で準優勝し、自力でウェイト制大会に出場した、ということだけでも頭が下がります。  ある意味、昨年41歳で4回目の世界大会出場を果たした市村直樹に通じるものがあると思います。

3.善十朗について気付いたことを書きます。

①再延長を戦って、試し割り判定負けでした。  ウェイト制大会で優勝するには、試し割りの枚数を積むことが大変重要です。  再延長戦を戦って、引き分けの場合には試し割り判定です。  勝ち上がれば実力は拮抗(きっこう)してきますから、1試合や2試合は試し割り判定になる可能性が高いのです。  重量級で優勝した赤石誠選手は、準決勝・決勝ともに試し割り判定勝ちです。  

 サンドバッグを横に寝かせて突くなどの練習をすることが必要です。  そして最も重要なことは、たとえ何かの種目で失敗したとしても、あきらめずに1枚でも多く割ろうとすることです。  その勝ちにこだわる思いが、勝利を引き寄せるのだと思います。

②技術的には、下段回し蹴りが良かったと思います。  破壊力を増すには、ウェイトトレーニングを中心としたパワーおよび体重アップや、重心を安定させるための足腰の鍛錬が重要です。    

③胸への突きをカットすることが必要です。  本人にとっては、効いていないのかもしれませんが、結果として押し崩されたりするなど、審判への印象は良くありません。  

④攻撃技やコンビネーションも、もっと工夫する必要があります。  今回、技の工夫や多彩さという点では、軽量級の澤村勇太選手が1番良かったように思います。  特に、技を出すタイミングが絶妙でした。

⑤スタミナトレーニングも、もっとやりこむべきでしょう。 

4.翔平についても書いてみます。

①試合中に苦しくなってくると、それが顔に出ます。  空手に関わらず、勝負においてはポーカーフェイスを保つことが必要です。

②善十朗の項で書いたウェイトトレーニング、足腰の鍛錬、技の工夫、スタミナトレーニングは同様に重要です。

③技術的には膝蹴りに進歩が見えました。  今後は、一本勝ちが狙える上段膝蹴りの研究が望まれます。

④143キロの阿曽健太郎選手との試合は、良く頑張ったと思います。  しかし、単なる善戦で終わらせず、次に当たった時には倒すつもりで、稽古に励む必要があります。

5.善十朗・翔平ともに更なる稽古が必要です。  量的にも質的にも、どこまで自分を追い込めるか、だと思います。  『稽古で泣いて、試合で笑う』という精神が重要です。  

 でも、過去の全日本チャンピオンや全世界チャンピオンが、皆やってきたことですからね。  2人の今後に期待しましょう(笑)。

 いずれにしても、大阪に行かれた皆さん、お疲れ様でした。

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石井慧選手

1.6月10~12日の3日間、日経新聞で柔道の石井慧(さとし)選手を取り上げています。  石井選手は、今年4月の全日本選手権で優勝し、北京五輪の柔道100キロ超級の代表に選ばれました。

2.記事の一部を、番号を付けて紹介します。

『①昨年12月の嘉納杯で井上康生を、今年4月の全日本選手権で棟田康幸を制した戦いが象徴的だ。  貫徹したのは、相手の持ち味を消し去り、反則1つでも勝ちきる柔道。  投げることは半ばあきらめていた。  それでも勝つ方法はあるとばかりに、気迫と技術と知略を尽くして審判も味方につけた。  術中にはまった井上に「努力やひたむきという言葉に収まりきらない、異常なまでの執念を感じた」と言わせた。

②勝利にこだわるリアリスト。  「柔道はルールのあるケンカ。  北京だって自分の柔道ができてもできなくてもいい、金メダルが取れれば」とためらいなく言い切る。  昨秋に100キロ超級に階級を上げてから18連勝、逆転で五輪代表をつかんだ。  ただの1度でも負けていたら北京はなかった。

③恩師で国士舘高校監督の岩渕公一はいう。  「あいつは勝つ方法を突き詰め、それをやり切る強い意思がある。  普通は不安になったり、周りの目が気になったりしてできないもの。  そこが他と違うところ」

④柔道を始めたのは12歳、中学1年と遅かった。  それが10年目で五輪の舞台へ。  理由は石井に接した誰もが驚く練習量しかない。  恩師の岩渕の言葉が端的だ。  「練習を止めたことは何度もあるが、練習しろと言ったことは1度もない」

⑤派手さはないが、実戦に強い。  一発で仕留められなくても二の矢、三の矢で。  スタミナ自慢で、延長戦になれば絶対負けない。

⑥ウェートトレーニングで鍛え上げた強烈な握力と腕力、1日8時間の練習で培ったスタミナは寝技でも生きる。  全方位から絡みつき、相手の逃げ道を封じながらジリジリと乗っかっていくさまは、地獄へと引きずり込まれるよう。  4月の全日本選手権では、鈴木桂冶がその餌食(えじき)となった。』

3.明日から3日間、大阪です。  明日は、午前11時から岸和田で大西靖人の5年祭、午後4時から府立体育館で審判講習会が行われます。  土曜日、日曜日は同じく府立体育館で、第25回全日本ウェイト制大会です。

 また月曜日にお目にかかります。  よい週末を。

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松井秀喜選手とデレク・ジーター選手

1.日経ヴェリタス6月8日号の記事で、ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜、デレク・ジーターの両選手を取り上げていました。  その一部を番号を付けて紹介します。

『①松井の古里は石川県能美市。  小さな日本海の町を特徴づけているのは、日本三霊山の一つ、白山だ。  親鸞が布教した北陸。  あつい宗教心が土地の深い所に潜んでいる。

②よく知られるように、父親は宗教家だ。  瑠璃(るり)教会司教、松井昌雄(まさお)氏。  天をすべての祖とする天祖光教(名古屋市)の流れを組む。

③根幹の教えを「寿戒(じゅかい)」という。  「怒り・・・悲しみ、驚き、恐るは、心の平安を紊(みだ)し、身の幸福を破る禍(わざわい)の種なり」  大事なのは凪(なぎ)の心。  最高の幸せは平常心から生まれる、といった意味だ。  松井の姿と重なるが・・・。

④松井選手「実は親父から、これは教会の教えだとか、そういう風に言われたことは何一つ無いんです。  ただ、その教えの中から、僕が、理解できるようなことは、多分喋ったでしょうね。」

⑤教会を興したのは松井みよ。  昌雄氏は、その養子となり、みよ亡き後、教会を継いだ。  そして松井が生まれる。

⑥松井選手「僕のおばあちゃんの存在っていうのは、やっぱり、神、なわけでしょ。  みんなが助けを求めてくるし、僕はそういう環境で育った。  困った人のために、何か力になってあげたいという気持ちは、当たり前にあるかもしれない。  身に付けたということではなく、見てきたということでしょうね。」

⑦巨人時代、松井はベトナムの孤児10人の里親になった。  05年12月のスマトラ沖地震の際は、被災地に5000万円の義援金を送った。  07年3月、古里を襲った能登半島地震では1000万円を寄付。  ありがちな売名行為という声は、彼に関しては聞かない。

⑧松井選手「日本の選手もそうかもしれませんが、メジャーリーガーはボランティア活動に随分積極的ですね」  代表例はデレク・ジーターだろう。  「お金を少し稼いだら、少しだけ社会に還元しなさい。  たくさんもらったら、たくさん還元しなさい」  ジーターは子供のころ、母親からそう聞かされて育ったという。 

⑨松井は尊敬する選手として同い年のジーターの名をあげる。  松井選手「彼は、僕と、同じにおいがするんですよ。  違う部分もいっぱいありますけど。  ジーターは決してセンスがあるとは思わない。  そう見られているけど、守備もそんなにうまいとは思わない。  でも、ピンチでも、チャンスでも、どんな場面でも変わらないすごさがある」』

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矢沢永吉さん

1.6月8日の朝日新聞に、矢沢永吉さんのインタビューが載っていました。  その一部を、番号を付けて紹介します。

『①僕が3歳の時に母は家を出てしまったし、小学校2年で父が亡くなった。  だから僕はあちこちの親類に預けられ、そして祖母に引き取られて育ててもらった。

②貧しかったですね。  生活保護を受けていたし、学校の給食費も、教科書代もすべて免除される。  そういう特典が恥ずかしくて、悔しくて、何で僕だけがそうなのか、こんな屈辱的なことはないと思っていた。  自分が親になったら、息子の給食費や教科書代は絶対払ってやると誓っていましたよ。

③道具が買えないからスポーツなども参加できなかったし、いつもおなかが減ってるし。  つまらない、つまらない、というのが口癖だったけれど、それを聞くと、おばあちゃんは「面白いところに行け」と言うだけ。  でも、涙ぐんでいることもあった。

④それでも僕がグレなかったのは、音楽に出会ったからです。  ベンチャーズがすごい人気で、エレキギターの音に、まず夢中になった。  もちろん買えないから、友達のを触らせてもらうだけ。  ビートルズを知ったのもその頃で、自分で作曲のようなことを始めたんです。  楽曲の本を買って、発声練習なんかも1人で始めて、プロになる気持ちが固まっていった。

⑤人がなんと言おうと、自分の夢は必ず叶(かな)うと思っていたのは、不思議だね。  それだけ今の境遇から這(は)い上がりたいと思っていたし、とことん音楽に夢中になる自分を信じられたんだと思う。

⑥音楽でスターになる、その思いの強さだけで広島を出てきたけれど、いい曲を作って、何でもやってやるという覚悟だけは大したものだった。

⑦僕は、成り上がるという言葉を大切に思っている。  自分の手で階段を上がっていくわけで、本当は、こんなにワクワクすることはない。  うちは裕福だからと、うそぶいている人だって、そのご先祖の誰かが成り上がったんです。  成り上がりの反対は、ぶら下がりだ。  やっぱりそれじゃつまらないよね。』

2.私の弟子にも市村や酒井など、矢沢さんの熱狂的なファンがいます。  このインタビューからでも、その魅力の一端(いったん)が分かるような気がします。

 衣装まで用意する、市村や酒井の「なりきり永ちゃん」は最高です(笑)。

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糸井重里さん

1.6月6日、朝日新聞夕刊に糸井重里(いといしげさと)さんの記事が載っていました。  抜粋し、番号を付して紹介します。

 『①コピーライターの糸井重里さんが主宰するインターネットサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」が6日、創刊10周年を迎えた。  「ほぼ日刊」という名前なのに、実は1日も欠かさず更新中だ。

②いわゆる「新聞」とは違い、糸井さんが毎日書くエッセーのほか、ジャーナリストのニュース解説や医師のコラム、芸術家の作品集などを日替わりで載せてきた。

③1日平均140万のページビューがあり、25~35歳の女性にファンが多いという。

④糸井さんは「10年続けること」を目標にしてきた。  文芸評論家の吉本隆明氏に「とにかく毎日、10年続けたらものになる。  僕が保証する」と言われたからだ。

⑤「ほぼ日」で執筆や対談を続ける一方で、サイト運営会社の経営者でもある糸井さんは、今年で60歳になる。

 「早く引退する準備のつもりで始めたけど、この先10年やってみたくなった」』

2.「武の道は千日をもって初心とし、万日をもって極となす。」  大山総裁がよく言われていた言葉です。  
 「武道を始めてから、千日(約3年)の稽古で、やっと修行の入り口に入ったにすぎない。  万日(約30年)の稽古で、初めて極めたと言える。」の意です。  入門して、ちょっと稽古しただけで、分かったような気持ちになる、そんな慢心を戒めた言葉だと思います。

3.私の極真会館総本部道場入門から、今年の8月で37年になります。  城西支部発足から同じく30年です。  とても極めたとは言えませんが、これからも精進したいと思っています。

 ブログのほうはやっと9ヶ月が経ちました。  次の目標は3年(千日)ですね。

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(20)昭和57年 大学同好会

1.昭和57年6月の第6回首都圏交流試合で4位に入賞した皿山康浩は、法政大学同好会のメンバーです。  法政大学同好会は昭和54年、法政大学4年生だった浜井良明君(現・中部本部長)に連れられて道場にやってきた『法政大学実戦空手同好会』が母体になっています。  

 4年生の近藤・野村、3年生の大西・伊藤、2年生の湯城・成瀬、1年生の坂本などがいました。  近藤が初代の主将でしたが、翌年は大西が主将を務めます。  皿山は、大西が主将の時に入学して来ました。

2.空手の選手としては、いつでも練習可能な専任の指導員についで、大学生が時間的に恵まれていると思います。  そこで、大学同好会の設立には力を入れてきました。  法政大学の後は、東京大学・一橋大学にも同好会を作りました。

3.法政大学同好会は、昭和60年代の前半に事情があって活動を休止します。  今思えば、そのまま継続するべきだったかもしれません。  いずれにしても、第2代主将の大西が後に全日本チャンピオンになったり、創成期の城西にとって大変重要な存在でした。

4.松井館長体制になってから、早稲田大学・明治大学に同好会を作りました。  早稲田大学同好会は、私がお世話になった林和信社長の長男の真司君が、早稲田高校から早稲田大学に進学した時に作りました。  真司君と同級生の浅郷君の2人が中心となって、会員を増やしていったのです。

 昨年は友人の小島一志さんの長男の大志君が、立教高校から立教大学に進学したのを機に、立教大学にも同好会を作りました。

5.約30年間、大学同好会の運営を見ていて、思うことがあります。  それは、同好会活動が盛り上がるかどうか、同好会の会員が増えるかどうかは、主将を中心とした幹部会員の力量によっているということです。

 法政大学同好会は大西が主将の時、会員が格段に増えました。  東京大学同好会も菊地(現・自治省)や早田(現・経産省)が主将の頃が、会員が最も増えた時です。  今は、早稲田大学同好会の会員数が抜きん出ています。

 逆に残念ながら、一橋大学同好会は今年閉鎖しました。  最近、新規入会がなく、最後の一人も今年卒業してしまったからです。

6.同好会の主将や幹部によく話すことがあります。  それは、同好会の運営は一種のマネジメントですから、卒業して企業等に就職しても、運営上学んだことは必ず生きる、ということです。

 よい週末を。

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後藤新平

1.昨夜、NHKの『その時歴史が動いた』で、後藤新平を取り上げていました。

2.以下は、ウィキペディアで検索した、後藤新平の経歴・人物からの抜粋です。

 『台湾総督府民政長官。  満鉄初代総裁。  逓(てい)信大臣、内務大臣、外務大臣。  東京市(現・東京都)第7代市長。  東京放送局(のちのNHK)初代総裁。

 計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名されたが、帝国主義日本の有能な植民地経営者で、都市設計者。  台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道の整備に貢献した。

 また、関東大震災後、内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。』

3.後藤新平は私が尊敬する人物の一人です。  20代の頃に伝記を何冊も読みました。  特に惹かれたのは、「大風呂敷」とあだ名されるほどの、その大きな構想力です。  後藤新平が関東大震災後に立案した復興計画の大きさを物語る逸話をウィキペディアから引用します。  

 『関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。  それは、大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)のため、財界などからの猛反対にあい、当初計画を縮小せざるを得なくなった(議会に承認された予算は、3億4000万円)。  (中略)

 当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の時代では、受け入れられなかったのも無理はない。』

 この時、最初に30億円という、大きな予算要求をしたので、10分の1に削られても、ある程度の道路整備が出来たのだと思います。

4.番組の中で印象的だった後藤新平の言葉を2つ紹介します。  

①満鉄(南満州鉄道)初代総裁に就任したときの言葉です。

 「午後3時ごろの人間は使わない。  満州は午前8時の人間でやる。」

 実際に後藤新平は、30代、40代の若手の優秀な人材を招聘(しょうへい)し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たったそうです。

②後藤が死の直前に残した言葉です。

 「金を残して死ぬものは下だ。  仕事を残して死ぬものは中だ。  人を残して死ぬものは上だ。」

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(19)昭和57年 前半のニュース  

 昭和57年に入り、いくつかの出来事がありました。

①長女誕生・・・2月20日に長女が生まれます。  代田橋の杉山産婦人科で生まれました。  大賀と鴨志田を連れて、新生児室で寝ている長女を見に行ったことを思い出します。  

 その当時、大西・三和・大賀・鴨志田などの指導員が稽古後に、私の自宅に寄って、一緒に食事をしていました。  稽古が終わると、代田橋道場の向かいにあった銭湯に皆で行き、その後、自宅で食事をするのです。  いつもは家内が食事の支度をするのですが、出産前後は母が実家から来て食事を作ってくれました。

②公認会計士第3次試験合格・・・昭和55年の第12回大会出場まで空手の稽古に専念していたので、昭和56年の受験はあまり自信がありませんでした。  しかし、長女が退院した2月27日の官報に、幸いにも自分の名前が載っていました。

③松井館長が出稽古に・・・昭和56年の第13回全日本大会終了後のレセプションで話したことがキッカケとなり、松井館長が週に1回ウェイトトレーニングを中心とした出稽古に来ることになります。  

 初出場の第12回大会で4位に入賞した松井館長は、第13回大会でも3位となり、若干19歳にして、十分チャンピオンを狙える位置にまでつけていました。  

 道場開設から日の浅い城西支部にとって、全日本のトップ選手の出稽古は願ってもないことでした。  稽古した後は、皆で銭湯に行き、松井館長も交えて自宅で食事をしました。

④小笠原和彦が移籍入会・・・神奈川支部に所属していた小笠原は、緑帯で第12回大会に出場し、3回戦で松井館長と当たり、判定負けします。  天性の体の柔らかさを生かし、1回戦で一本勝ちしたのが印象的でした。  

 大賀が優勝した昭和56年6月の第4回首都圏交流試合を見に来ていて、年が明けてから、城西へ移籍したい旨の連絡がありました。

⑤森憲義が第6回首都圏交流試合で優勝・・・前回の第5回は惨敗でしたが、今回は、黄帯の森が初出場・初優勝を遂げます。  大変センスのいい選手で、大西と同様、入門後1年を待たずに黒帯になりました。  

 3位に三和、4位に皿山と、ベスト4に城西から3人の選手が入りました。

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山本夏彦さん

1.『座右の山本夏彦』(嶋中労著 中公新書ラクレ刊)を読みました。

2.ウィキペディアで検索した山本夏彦さんの紹介です。

 『山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年(大正4年)6月15日 - 2002年(平成14年)10月23日)は、日本の随筆家、編集者。 『週刊新潮』の鋭い舌鋒の連載コラム「夏彦の写真コラム」で有名であった。』

3.抜粋し、番号を付して紹介します。

①私は夏彦を通して、歴史の見方を学び、思想の立脚点を学び、文語文の美しさを学び、併せて人間の賢愚深浅(けんぐしんせん)を学んだ。  

②真の独創を育てたいのなら、まず型にはめることだ。 ピアノなら先生の演奏をとことんマネし、繰り返す。  独創なんてものは、その繰り返しの中からしか出てこない。

③夏彦は「老荘(=老子・荘子)の徒」を自称しているくらいだから、無為自然(むいしぜん)を善しとしている。  つまりは「知足(=足るを知る)」の精神だ。

④山本夏彦さんの言葉・・・『人は内心忸怩(じくじ=恥じ入る様)たるものを心中にもたないといけない。  私は、コンプレックスは人に必須なものだと思っている。  コンプレックスがあってはじめて人である。  それが絶無な存在は人ではない。』

4.共感しながら読んだのですが、次のような山本夏彦さんの言葉がありました。  番号を付して紹介します。

 『①相田みつをの「にんげんだもの」を見ると私はぞっとする。  なにより「にんげんだもの」と筆で大書したその字がいやだった。  無造作を装っているうちに固まった字である。  

②「にんげんだもの」は何にでもくっつく。  「いろいろ あるんだな にんげんだもの」 「感動とは 感じて 動く と書くんだなあ」 「まようときだってあるさ凡夫だもの あやまちだってあるよ おれだもの」

③これがなん百万という人を動かすのだ。 こんなご託宣(たくせん)なら誰だって言えるが、十年書き続ける人はない。

④まじめなことを、まじめくさって言うのはヤボである。  そこには含羞(がんしゅう=はじらい)や笑いがなくてはならない。  「にんげんだもの」にはそれがない。  まじめくさった凡庸(ぼんよう)な説教があるのみである。』

5.私は相田みつをさんの書が大好きです。  携帯のiモードのマイメニューにも「相田みつをの心」を登録しています。  今日配信された「肥料あのとき」はマイコレクションに保存しました。

 人それぞれですね(笑)。

 

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倉田雲平

1.『商売繁盛・老舗(しにせ)のしきたり』(泉秀樹著 PHP新書刊)を読みました。

2.その中の「ムーンスター」創業者、倉田雲平(くらたうんぺい)の項を抜粋し、番号を付して紹介します。 

 『①そんな雲平に転機が訪れる。  明治10年に西南戦争が始まり、九州各地には政府軍の兵站(へいたん=軍需品補給)基地が設けられ、軍需景気に沸き立ったのである。  そんな折、雲平は知人から政府軍の河野参謀を紹介され、大量の発注を受けた。  (中略)  しかし、出された条件は厳しかった。  (中略)  だが、ここで断ってしまえば、二度とこんなチャンスはめぐってこないかもしれない。  一瞬の迷いをおくびにも出さず、雲平は快諾した。  (中略)  おかげで雲兵は、河野参謀の信頼を得ると同時に大金を手にした。  この儲けの大きさが冷静な判断力を狂わせた。  (中略)

②続いて雲平は、河野参謀から軍需物資の大量発注を受ける。  被服(ひふく)だけでなく草履(ぞうり)から食料まで、兵隊が必要とするあらゆるものが含まれていた。  (中略)  これまでコツコツと働いて貯めた金をすべて注ぎ込んで物資を買い集め、熊本の指令本部へ送り出した。  しかし、しばらくして田原坂(たばるざか)で、すざまじい戦闘が繰り広げられたとの知らせを、雲平は久留米で受けることになる。  (中略)

③わずかに残っていた金を旅費に、熊本へと赴(おもむ)いた。  到着してみると、そこは焦土(しょうど)と化していた。  その戦争の跡地に、自分が送った荷物がポツンと残されていた。  (中略)  河野参謀は田原坂で戦死したとのことで、ついに面会は叶わなかった。  (中略)  町には調達物資があふれ、買い取り手が見つからない。  結局、二束三文で売り飛ばし、帰りの船賃を手に入れるのがやっとだった。  こうして、雲兵は瞬(またた)く間に無一文になってしまったのである。  (中略)

④再起を誓った雲平と妻のモトは、不況の嵐にもめげず、客の後ろ姿に手を合わせるようにして「堅実なる」商売を続けた。』

3.「ムーンスター」は2006年に「㈱ムーンスター」と改称しましたが、それ以前は「月星化成㈱」という社名でした。  星と三日月を組み合わせたスニーカーなどで、おなじみだと思います。  明治6(1873)年から135年も続く老舗企業です。

4.「走る者はつまずきやすく、つま立つ者は倒れやすい。  堅実なる一歩ずつを進めよ。  進めたる足は堅く踏みしめよ。」

 雲兵が残した家訓です。

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2008年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年07月