2010年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年03月

大谷光真門主『愚の力』

大谷光真・浄土真宗本願寺派24代門主が書かれた『愚の力』(文春新書)を読みました。  『日の光の中のほこり』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①宗教的な喜びといっても人さまざまです。  私は世の中がパッと明るくなるような喜びの感覚はもてません。  しかし、今まで知らないできた人生を気づかせてもらったと感じることがあります。

②それは必ずしも華々しい喜びの体験というわけではありません。  もっとしみじみとにじみ出てくるものです。  

③華々しい体験ができればそれはそれで素晴らしいと思うのですが、そうならないからといって信心がないということにはなりません。  譬(たと)えていえば、カーテンを閉めているときには暗くて気づかなかったほこりに、カーテンを開けて日の光によって気づかされるようなものです。

④いくら探し求めても、自分一人の力だけでは気づくのは難しい。  気づくというよりも、気づかされる。  この「受動態である」という点が大事です。

⑤生きていること自体がいただきものと気づかされるのです。  そのためには、人間は死ぬものだという有限性の自覚が大事です。

⑥現代人は人生とは自分の努力の結晶だと思っています。  子どもの頃から努力しなさいと言われて育っているので、成果はすべて自分の努力のおかげだと思いがちです。  しかしそれは一人合点です。  そうではなくて、何事も「~される」という視点が大切なのです。

⑦気づかされ、生かされる。  いただきものである自分であることから凡夫の自覚も出てきます。』

日曜日は審査会です。  よい週末を。

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松永修岳さん『運の管理学』

『運の管理学』(松永修岳著 講談社)を読みました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①「運」は競(せ)り勝っているとツイてきます。  

②きびしい競い合いの中で、ちょっとだけ上回る。  相手より一歩前に出る。  そうやって勝っていくと「運」が強くなるのです。

③接戦であればあるほど「摩擦」が強くなるからです。  接戦でつねに勝っている人は、「運」を保ち続けることができるのです。

④反対に断トツで勝った場合には、その場は良くても、「摩擦」がないからエネルギー切れになって、継続的な「運」が発生しなくなってしまいます。

⑤大勝ちすると、次に大負けすることがよくあります。  油断して、「気」が抜けてしまうからです。  断トツで勝つと油断をするのです。』

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上島竜兵さん『人生他力本願』

ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんが書かれた『人生他力本願』(河出書房新社)を読みました。  『人との巡り合わせを信じ込もう』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①志村(けん)さんが前に言っていたけど、「俺は意外と人を切るんだよね」って言うの。  それはね、別に冷酷な人とかそういう意味じゃなくてね。  「コイツとつき合っててもいいことがないな、違う方向に行っちゃうなと思うと、そいつとはつき合わない方がいいと思って距離を置くから」って。

②その逆もあるでしょ。  「コイツとつき合うようになってからなんか上手くいくよな」って出会いが。  志村さんが酔っぱらって俺に言ったことがあるけど、「おれは竜ちゃんとつき合ってから良くなった」って。

③そう言われたらうれしいよね。  まあ、「俺の方はそんなに良くもなってないな」と思うんだけど。   ・・・・・・いやいや、それはウソですよ!  今のは冗談だから。  俺も志村さんとつき合ってから良くなったと思うんですよ。  いやホントに。

④俺はやっぱり(ビート)たけしさんとの出会いが本当に大きかったのね。  たけしさんのおかげでダチョウ倶楽部も人気が出たっていうのがあるからね。

⑤そういえば、メンバーともそうだしね。  リーダーにしろ、寺門(ジモン)にしろ、あの2人だからダチョウ倶楽部は今までやってこれたんだと思うしね。

⑥竜兵会のメンバーもそうだと思うよね。  劇団ひとりもそうだし、デンジャラスも土田(晃之)も有吉(弘行)も。  みんな売れちゃったもんね。  それはみんな、もともと力があったからだけど、竜兵会でみんなが出会ったっていうのも大きいと思うんですよ。  それは俺にとってもプラスなことだし。

⑦冷たいようだけど、ときにはその人とつき合わないようにするってこともしないといけないときもあるんですよ。  世の中うまくいくのもいかないのも人間関係だから。  人の巡り合わせって本当に大切にしないといけないと思うよね。』

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新井満さん『オリジナルへの勇気』

1.2月21日の朝日新聞に新井満(あらい・まん)さんの『仕事』に関するインタビュー記事が載っていました。  新井さんの紹介から抜粋します。

「作家・作詞作曲家。  1946年生まれ。  (株)電通に在職中の1988年、小説『尋ね人の時間』で芥川賞受賞。  2003年に発表した写真詩集『千の風になって』と、それに曲を付け自ら歌唱したCD『千の風になって』は現在もロングセラーを続けている。」

2.記事から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①仕事の流儀にもいろいろありますが、人のまねをして成功しても、あまりうれしくはありませんよね。  どうせなら、新しいオリジナルな流儀で成功したいものです。  ではそのためにはどうしたらよいのか。  人と違うことをする。  これが基本でしょうね。

②「バスに乗り遅れるな」という言葉があります。  私は嫌いです。  1台のバスに人々が争って乗り込もうとしているならば、「お先にどうぞ」と言って譲るでしょうね。  つまり「バスには乗り遅れろ」です。  そうして人々が行かない所を目指して歩き出すと思います。

③もし時代というバスが東に向かうならば、私は西に向かうつもりです。  競争相手がいませんから、勝ったり負けたりもありません。  気楽なものですよ。  たぶん私は相当なヘソ曲がりなんでしょうね(笑)。

④30年ほど昔、日本で初めて環境映像というものを、会社の仲間たちと開発した頃のお話をします。  (中略)

⑤「そんなもの売れるわけないじゃないか」とよく言われました。  確かに当初は全く売れませんでした。

⑥しかし30年後の今はどうでしょう。環境映像は私たちの暮らしの中にすっかりとけ込んでいますよね。  世界の都市をのんびり散歩するような、環境映像に近い癒し系テレビ番組もずいぶんと増えてきました。』

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渡辺政隆さん『ダーウィン』

1.昨年の6月30日のブログで『種の起源』(ダーウィン著 八杉龍一訳 岩波文庫)を紹介しました。  昨年はダーウィンの生誕200年に当たるそうで、サイエンスライターの渡辺政隆さんが『種の起源』の新訳を光文社古典新訳文庫から出されました。  上巻の巻末で渡辺さんが書かれた『ダーウィンの人となり』から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①チャールズ・ロバート・ダーウィンは、1809年2月12日、イングランド西部、ウェールズとの国境に近い小さな商業都市シュルーズベリで、二男四女の五番目、二男として生を受けた。  父親は裕福な開業医で、母親は有名な製陶会社ウェッジウッドの創始者の娘という家柄である。

②昆虫採集や魚釣りが好きな少年で、五歳上の兄といっしょに薬品を買い込んで化学の実験を楽しんだりもした。  家業を継ぐべく、十六歳でエジンバラ大学の医学部に入学した。  しかし、麻酔なしで行われる手術を見学し、患者の苦痛と血を見ることに耐え切れず、一年半で退学することになる。

③医学の道を断念したダーウィンは、半年後にケンブリッジ大学に入学し直し、田舎牧師という職を目指すことになった。  敬虔な信徒というわけではなかったが、世間体からも、自然史学の研究に好きなだけ時間を割けるという点からも、妥当な職業選択と判断されたのだ。

④大学をまあまあ優秀な成績で卒業したダーウィンは、まだ見ぬ熱帯を訪れる計画を夢想していた。  そこに英国海軍測量艦ビーグル号乗船の誘いが舞い込む。  航海は最終的に五年間に及んだ。  初めて目にした熱帯に歓喜し、不思議な生き物、謎の化石、美しいサンゴ礁等々に目を見張った。

⑤航海中の出来事は、どれもみな意識の変革を迫る体験だった。  そして、神による天地創造を信じて乗船した青年は、この世の生きものは神によって創造されて以後に姿を変えることはなかったとする創造説に疑念を抱く進化論者として下船することになった。

⑥しかも、出航の時点では無名の青年だったダーウィンは、旅先から送った膨大な標本と観察日誌により、帰還時には学会の寵児となっていた。  だが、それが逆に、ダーウィンには思わぬ重荷となってのしかかる。  

⑦自分を評価してくれる学会の名士たちは、いずれもみな創造論者である。  ところが自分は、邪説とされる進化論を心の奥で育んでいる。』

2.私のブログで何度も紹介させていただいている、公認会計士・本郷孔洋先生のメルマガ『ビジネスの眼』の先週末分のタイトルは『国力もやっぱり心理学?』でした。  その「まくら(・・・前置きの言葉のこと)」が面白かったので紹介します。

『いつもご愛読ありがとうございます。

 友人と別れ際、突然何を言うつもりか思い出せなくなりました。
 後で思い出しましたが、「じゃあまたね」でした。  相当やばい(笑)

 来週もよろしくお願いします。』





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国母和宏選手

1.バンクーバー冬季五輪のスノーボード男子ハーフパイプ、国母和宏(こくぼ・かずひろ)選手は果敢に狙った大技の着地に失敗し、8位入賞でした。  公式服の着こなしが問題とされましたが、その後の言動や御両親を含めた周囲からの評価を聞く限り、私には、スノーボードという競技に真摯に打ち込む好青年に見えました。

2.ところで、それ以上に気になったのはマスコミを含めた世論の反応です。  今朝の朝日新聞に面白い記述が二点ありましたので、抜粋し番号を付けて紹介します。

3.天声人語

『①多少の小言はわが胸にもある。  にも増して、ひとりの若者のささいな「未熟」をあげつらう、世の不寛容が気になった。  

②若いネット世代からの非難も目立ったと聞く。  どこかとげとげしい時代である。

③皮肉屋だった芥川龍之介に一言ある。  「最も賢い処世術は社会的因襲(・・・昔から続いてきているしきたりのこと)を軽蔑(けいべつ)しながら、社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである」。

④だが、若い身空でその処世術にたけた人物が魅力的だとも思えない』

4.コラムニスト辛酸なめ子さんの話

『①今の社会には悪い人、悪そうな人に制裁を加えてスカッとしたい気分があるのではないか。

②ただ、ボクシングの亀田兄弟も欠点をあげつらわれたかと思えば、チャンピオンになると英雄扱いされた。  とても評価がぶれやすいと感じる。』

5.よく子どもの世界のイジメが社会問題として取り上げられます。  私には、マスコミがある意味で先導する、大人の世界のイジメ体質も問題だと思えます。  以前から気になっていることなので、あえて取り上げてみました。

日曜日は西東京大会です。  よい週末を。

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村松俊亮さん『あいうえお』

1.私の会社の社訓は『カキクケコ』つまり『感謝・勤勉・工夫・倹約・貢献』です。  興味のある方は昨年11月4日のブログを読んでください。

2.ソニー・ミュージックレコーズ社長の村松俊亮(むらまつしゅんすけ)さんが大切にしているのは『あいうえお』つまり『愛・命・運・縁・恩』だそうです。  2月13日朝日新聞別紙に出ていました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①1987年にCBSソニーグループに入社した。  世の中はバブルにわき、音楽業界も隆盛。  「何もしなくても売れる。  こんな楽な仕事があるのかと思った」。

②だがバブルがはじけ、音楽業界も減速していく中、それよりも早く、大きな挫折を味わった。  30代半ばだった。  才能を見込んで口説いた新人バンドはヒットの芽すら出ず、「彼らの人生をつぶしてしまった」。

③心身ともにボロボロになり、会社に顔を出さなくなった。  見かねた上司が99年、大阪営業所に「逃がしてくれた」ことが転機につながった。

④販売促進課長として赴任。  開き直った。  「みんなで楽しくやれたらいいじゃないか」 「そのためにも地方発のヒットを作ろう」。  テレビ局と組んでドラマの主題歌を歌わせたZONEらが売れると、8人の部下全員の人事評価に最高点をつけ、本社に送った。

⑤そして、大阪行きから3年たった02年、大黒柱でありながら赤字に転落していたレーベル、ソニー・ミュージックレコーズの代表取締役に抜擢(ばってき)された。  輝かしい実績もないのに事実上のトップ就任。  

⑥上司はこう言った。  「君の部下に話を聞くと、みんな楽しそうに働いている。  そういう生き生きした組織を作ってくれないか」

⑦「実績のない自分が引き受ける以上、短期間で数字を出さなければ周囲も納得しない」と腹を決め、「選択と集中」で臨んだ。  スタッフ全員と面談し、以前から注目していた沖縄出身のグループ、オレンジレンジに絞って売り出した。  

⑧2枚目のシングル「上海ハニー」でブレークさせることができた。  この成功で現場のムードは一変。  会社は2年ほどで黒字になり、YUI、加藤ミリヤ、清水翔太ら若者の心をとらえるアーティストが現れていく。』

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一ノ矢さん『かいなを返す』

西洋発祥のスポーツではよく『脇をしめろ』と言われます。  ところが中国拳法には脇をあけ気味の動作が多いようです。  この点に関して『お相撲さんの“腰割り”トレーニングに隠されたすごい秘密』(元・一ノ矢著 実業の日本社)に面白い記述がありました。  本書中の元力士・一ノ矢さんと能楽師・安田登さんの対談から抜粋し紹介します。

『安田・・・能でひじを張ることによって肩甲骨や背中の筋肉も使えるようになるんです。

一ノ矢・・・相撲の腕(かいな)を返すことと一緒ですね。  腕を返すと、ほんとうに楽な力で相手を浮かすことができるんですよ。  背中の筋肉を全部使えますから。

一ノ矢・・・テッポウという柱を突く運動がありますが、いまはみんな腕(うで)のトレーニングだと思って、腕をまっすぐただ突く稽古、パンチを強くするのと同じような感じでやっています。  しかし、昔の映像や写真を見ると、片方の腕(かいな)を必ず返しているんですね。  本来は左の腕を返して突く、右の腕を返して突く、といった肩甲骨を自由自在に動かすための運動だったのではないでしょうか。』

中国拳法で脇をあけるのは、もしかして肩甲骨や背中の筋肉を十分に使うため?  誰か教えてくれないかな~(笑)。

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清水真砂子先生『生きてごらん、大丈夫』

1.今朝の朝日新聞に清水真砂子先生の記事が載っていました。  以下は紹介文です。

『児童文学の評論家で「ゲド戦記」などの翻訳で知られる清水真砂子さんが3月末、34年間勤めた青山学院女子短大を去る。  最終講義が1月末にあり、「すぐれた子どもの文学は、苦しくても生きてごらん、大丈夫、と背中を押してくれる。  みなさんもそんな一人に」と語りかけた。』

2.本文から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①清水さんはいう。  「子どもだから黄金時代なんてうそばっかり。  子どもぐらい縛られて不自由な存在はない」。  経済力がなく自由に移動もできない。  閉じこめられた世界にいる、と。

②そんな子どもが本を読む。  現実よりももっとえげつない大人がいて、もっとすてきな大人がいる。  「こんなに世界って広いんだ」と感じ取ることができるという。

③すぐれた子どもの本は「大きくなるって楽しいことだよ。  生きてごらん、大丈夫」と背中を押してくれるもの。  「苦労してもなかなか幸福にならない主人公を応援していたつもりで、人生の予行演習をやっていたのかもしれない」と、子ども時代の読書を振り返った。

④「毎日帰りたくなるような家庭を作るのは至難の業。  でも、子どもはそんなにヤワではない。  週に30分でもいい。  『この親の子でよかった』と思えるような瞬間があればいい」

⑤子ども学科の卒業生の多くは幼稚園や保育園で働く。  「現実には求めても光を得られないことがあるかもしれない。  それでも『どうせ』と子どもに言わせてはいけない。  言えば楽になるけれど、希望を放棄させるということは、最もモラルに反すること」と言葉を強めた。

⑥そして、こう締めくくった。  「子どもの本がしてきたように、この人に出会えたから自暴自棄にならずに済んだと思わせる一人に、この世につなぎとめる一人になって」』

3.私自身の人生を振り返ってみても、当然ですが何度かピンチの時がありました。  そんな時、極真空手の黒帯を取得したという経験が、力や自信となって背中を押してくれました。

清水先生の言葉の中の『本や卒業生』のように、『道場や指導員』との関わりが、通ってきている少年部の子どもたちの今後の人生において、少しでも勇気づけになればと思います。

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葛飾北斎『上達する時』

1.道場で自分の棚を整理していたら、2003年6月15日の日経新聞のスクラップが出てきました。  『美の美』という特集で晩年の葛飾北斎を取り上げています。

2.Wikipediaで葛飾北斎を検索してみました。

『葛飾 北斎(かつしかほくさい 1760年10月31日?~1849年5月10日?)は、日本の近世にあたる江戸時代に活躍した浮世絵師であり、とりわけ後期、文化・文政の頃(化政文化)を代表する一人。  代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。

3.その中で三女の阿栄について、次のように書かれています。

『阿栄(おえい)・・・画号・葛飾応為(かつしかおうい)。   絵師の南沢等明と結婚するが離縁、北斎の元で助手・浮世絵師として身を立てる。』

4.日経新聞の特集から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①北斎晩年の弟子、露木為一がこんなエピソードを語っている。

②――ある日、自分が阿栄に向かって「運筆が自由にならない。  これでは画工になりたいと思っても無理ではないか」と嘆いた。

③彼女は笑って、「私の父は幼い時から八十有余の年に至るまで、毎日筆を執らない日はないが、ある日、腕組みをして『自分は実に猫一匹も描くことができない』と落涙して嘆いたものだ。」

④「これは絵に限ったことではないけれども、自分は駄目だと投げ出そうとする時が、実はその道の上達する時なのよ」。

⑤するとそばで聴いていた北斎が「全くそうだ。  その通りだ」とつぶやいた・・・・・・。

⑥この父にしてこの娘あり。』

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辻井伸之さん『ピアニストの贈り物』

1.昨日の午後、NHKの『ピアニストの贈り物~辻井伸行・コンクール20日間の記録~』の再放送を観ました。  

2.全盲のピアニスト辻井伸行さんが、2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝したことは日本でも大きく取り上げられました。  ヴァン・クライバーンは1958年、米ソ冷戦中のソ連が国の威信をかけて創設した第一回チャイコフスキー国際コンクールの優勝者です。  番組でも紹介されていましたが、凱旋パレードが催されるなど、その後アメリカの英雄となりました。  

3.世界の新進気鋭のピアニストたちに挑み、6月7日に優勝するまでの20日間の過酷な舞台裏に密着しています。  NHKのホームページに紹介された番組内容を番号を付けて紹介します。

『①6月7日、ピアニスト辻井伸行(20)のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール優勝のニュースは日本中に大反響を巻き起こした。  権威ある国際コンクールでの優勝は日本人初と同時に全盲のハンディを乗り越えての快挙に日本中が沸き立った。

②アメリカテキサスで行われた20日間に渡る辻井さんの挑戦を最初から最後までそばでずっと記録し続けた一人のアメリカ人がいた。  ピーター・ローゼン。  Lバーンスタインやヨーヨーマ、Pドミンゴなどクラシック界の巨匠たちの演奏を記録してきた音楽プロデューサーである。

③ローゼン氏のカメラは辻井さんのテキサス到着から、過酷なコンクールの舞台裏、そして辻井さんが栄光を勝ち取るまでの20日間をすべて記録している。  その映像からは母親いつ子さんとの二人三脚、ホストファミリーの温かい支え、これまでカメラが入ったことのない審査の現場、共演するオーケストラと指揮者との息詰まるやりとりなど辻井さんがいかに厳しいコンクールを勝ち抜いたのかが改めて伝わってくる。

④ローゼン氏は言う。  「最初は全盲という興味で撮影を始めたが、次第に一人の偉大なピアニストの演奏に魅せられていった。  辻井の弾くショパンは巨匠ルービンシュタインの叙情性を持っている」。  辻井さんの演奏を聴いたアメリカ人の聴衆は「あなたの才能は神様からの贈り物よ」と彼を讃えた。

⑤ピアニスト辻井伸行のコンクールまでの20日間。  その知られざる姿をすばらしい演奏とともにお届けする。』

もともと涙もろいほうですが、昨日は泣けました。  勇気も沢山もらいました。  

一日働くだけでまた土日です。  よい週末を!

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伊集院静さん『作家の愛したホテル』

伊集院静さんのエッセイが好きです。  『作家の愛したホテル』(日経BP社)の「銀座のカウンター(帝国ホテル東京泊)」の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①あれは何年前だったろうか、夕刻から雨が降り出して、ホテルの部屋の窓に雨垂れが流れ出した。  私の部屋は角部屋で大きな窓から日比谷の映画街が見渡せた。  ぼんやりと眺めていた径に雨宿りをしている女性の姿が目に止まった。

②――どこかで見たような立ち姿だ。

③その人は私の友人の奥さんだった。  友人は数年前に亡くなっていた。  傘がなくて困っているのだろうか、と思っていると、小走りに彼女に近づいてくる人の姿があった。

④ひょろりと背が高いうしろ姿で、友人の長男だとわかった。  大きくなったな、と妙な安心と、この光景を友が目にすることができたら、とせんかたなき感情が湧いた。

⑤その夜、私は友人とよく出かけたバーで飲んだ。  銀座が似合う男だった、とつくづく思った。  いつか友人の息子と飲む機会があれば、そのバーに彼を連れて行ってやりたい気がする。』

昨日は久しぶりに遅くまで飲みました。  午前中は二日酔いでしたが、この文章を読んだら、今夜もまた飲みに行きたい気分になりました。  イケナイ、イケナイ(笑)。

明日は建国記念日です。  よい休日を。

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坂田栄男さん『本当に強いとは』

1.毎日少しずつ読んでいる本が何冊かあります。  『千年語録』(サライ編集部編 小学館)もその一つです。  表紙カバーに「雑誌『サライ』に連載されていた、サライ・インタビューから、次の世代へと語り継ぎたい名言名句を精選し、構成したものです。」と書かれています。

2.今朝は棋士・坂田栄男さんの項を読みましたが、次の一行に心ひかれました。

『本当に強いとは、ここ一番の大勝負に必ず勝つことなんだ。』

そういう意味での『本当の強さ』を身に付けたいものです。

3.ウィキペディアで坂田栄男さんを検索してみました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①坂田栄男(さかた えいお、大正9年(1920年)2月15日~ )は、囲碁棋士。  東京都出身、日本棋院所属、増淵辰子八段門下、九段。

②本因坊戦で7連覇して本因坊栄寿と号し、23世本因坊の資格を持つ他、選手権制初の名人・本因坊、7タイトル制覇、タイトル獲得64回など数々の記録を持つ、呉清源と並び称される昭和最強棋士の一人。  切れ味の鋭いシノギを特徴として「カミソリ坂田」の異名を持ち、数々の妙手、鬼手と呼ばれる手を残している。

③日本棋院理事長を1978年から1986年まで務めた後、日本棋院顧問。  2000年2月15日に現役を引退。』

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第44回スーパーボウル

1.今朝、NHK・BS1で第44回スーパーボウル(アメリカンフットボール)の衛星生中継を観ました。  NFL(ナショナルフットボールリーグ)のレギュラーシーズンで史上最多4度のMVP(最優秀選手)に輝くQB(クォーターバック)ペイトン・マニングが率いるインディアナポリス・コルツとニューオリンズ・セインツとの対戦です。  

2.3年ぶり3度目の栄冠を狙ったコルツが有利と伝えられていましたが、その前評判をくつがえし、セインツが初優勝を飾りました。  MVPにはセインツのQB(クォーターバック)ドリュー・ブリーズが選出されています。  

3.Yahoo!で検索した産経新聞ニュースから抜粋し、番号を付けて紹介します。

『NFLの頂点を決める全米最大のスポーツイベント、第44回スーパーボウルは7日(日本時間の8日)、フロリダ州マイアミのサンライフ・スタジアムで行われ、創設43シーズン目でスーパーボウル初出場のセインツ(ナショナル・カンファレンス)がスターQBマニングを擁するコルツ(アメリカン・カンファレンス)を逆転で破り、歓喜の初優勝を飾った。

①第1Q(クォーター)・・・フィールドゴールで3点を先制したコルツは終盤、ランプレーで陣地を進め、最後は看板QBマニングが長いTD(タッチダウン)パスをハイチ出身のガーソーンに通し、コンバージョンも決めてリードを広げた。・・・「10-0」

②第2Q・・・フィールドゴールで3点を返したセインツは終盤、ゴールラインまであと1ヤードに迫り、4thダウンのギャンブルを選択したが、コルツのディフェンスにはね返された。  それでも終了間際に40ヤードを越えるフィールドゴールで3点を加え、4点差に迫った。・・・「10-6」

③第3Q・・・セインツがまず、パスを受けたRB(ランニングバック)トーマスのTD(タッチダウン)で逆転。  これで火のついたマニングが連続してパスを成功させ、最後はアダイがローリングしながら中央突破で再逆転のTD(タッチダウン)。  セインツもフィールドゴールを決める。・・・「17-16」

④第4Q・・・セインツは、ショッキーへの短いTD(タッチダウン)パスで逆転。  さらにギャンブルの2ポイントコンバージョンも成功させて「17-24」。  残り5分42秒。  TD(タッチダウン)を狙うしかなくなったコルツだが、なんと名手マニングのパスをセインツのポーターがインターセプト(パスされたボールをディフェンス側の選手が捕球すること)。  そのまま74ヤードを走りきり、「17-30」とリードを広げた。  最後は「17-31」でセインツが初の栄冠をつかんだ。』


4.前半戦(第1・2Q)は観ましたが、打ち合わせのため外出し、後半戦の結果は電話確認でした。  最後まで観たかったな~(泣)。

 

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福原義春さん『孔子と老子・荘子』

資生堂の元会長・福原義春さんが書かれた『だから人は本を読む』(東洋経済新報社)を読みました。  孔子と老子・荘子についての記述から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①孔子の『論語』は、どうも説教じみていてかえって納得できない感じがある。  つまり教条的なので、そこでは寛容さや遊びが全く感じられない。  

②やがて老子に出会い何かストンと落ちるものがあった。  老子の言葉として伝わっている文章はそれほど多くはない。  しかし無知無欲と無為自然が根本であり、それがいかに大切かを繰り返し説くのだ。

③荘子の方はテキストが大量であるが、根本の思想は一つである。  歴史の始めを説く混沌の物語から始まって無為を天地自然の理と考える。

④孔子の『論語』は秩序を重んじ、非常に規範的であり、かつ自己充実的で、良くいえば建設的である。  これはプリンシプル(思考・行動の原理)に近く、それに比べて荘子がいっているのはフィロソフィー(根源的な哲学)なのだと思う。

⑤だから、少なくとも孔子を唯一の規範として頼り切ってしまうというのは、物事のある一面的な見方であり、人間の本質に迫りきれないのではないだろうか。  だからこそ、老子・荘子を読むことにも挑んで、ものの考え方、人生のとらえ方には、さまざまあることを知ったほうが良いと思うのだ。

⑥今の世の中に通用するのは老子であり、近未来の社会に通用するのは荘子ではないか、と考えるに至ったのは、かなり以前のことになる。  老子の言葉の多くは、孔子の金言に対する裏読みであり、皮肉であり、逆説であり、また逆転思考・水平思考の混合であるといえる。

⑦だから孔子が勉強に努めなさいといえば、老子はものを識っていても、ひけらかしてはいけないと諭すのだ。  孔子が成功の道を説けば、成功におごって安住してはいけないよと、説くのである。

⑧さらに荘子を読むに至って、私は「これだ!」と思わず軽い興奮を覚えた。  荘子はさまざまなエピソードを通じて、いかに地位や名声を欲することが無駄であり、無欲が大切であるかを説いた。  

⑨また世の中に有用と無用の区別などなく、地位や境遇の違った対立、上下関係なども、見かけだけのことで、結局は一つの根源的な「道」に戻っていく。  荘子にはプラスもマイナスも、正も逆もない。  すべてが生命ある無秩序で、それを包み込むのが「道」なのだろう。』

私の座右の銘(ざゆうのめい・・・常に自分の心にとめておいて、戒めや励ましとする格言)の一つが老子のいう「無為自然(むいしぜん・・・人為的な行為を排し、宇宙のあり方に従って自然のままであること)」です。

東京も寒い日が続いています。  風邪など引かれませんように。  良い週末を!

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立春

1.今日、2月4日は二十四節気(にじゅうしせっき)の1つである立春(りっしゅん)です。

2.二十四節気とは、1太陽年を日数(平気法)あるいは太陽の黄道上の視位置(定気法)によって24等分し、その分割点を含む日に季節を表す名称を付したものです(wikipediaによる)。

3.気学的には、立春から新年度です。

4.1953年12月生まれの私は九星でいうと『二黒土星(じこくどせい)』です。  ご指導いただいている安部芳明先生によると、今年一年の二黒土星は隠忍自重(いんにんじちょう・・・ひたすら我慢して軽々しい振る舞いを慎むこと)することが大切だそうです。

5.心して生活していきたいと思います。  

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本郷孔洋先生『韓国も怪談?』

私のブログで何度も紹介させていただいている、公認会計士・本郷孔洋先生のメルマガ『本郷孔洋のビジネスの目』の1月28日のテーマは『韓国も怪談?』でした。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①ソウル近郊の町にある高層アパートの10階に、ミジョンという名の女子高生が住んでいた。

②彼女は受験勉強真っ盛りの3年生で、学校で自主勉強を終え、帰宅するのはいつも真夜中の12時近くという日々がつづいていた。

③ある日の晩、いつものようにエレベーターに乗って10階まで上がろうとしたところ、自分が「10」のボタンを押しただけで、ほかの階のボタンは何ひとつ押していないのに、2階、3階…と各階にとまってしまうのである。

④しかも、とまった階で誰かが乗ってくるわけでもなく、ただ、とまり、ドアが開き、閉まるだけだ。  こんなくり返しが10階までつづくのである。  じつに気味の悪い話だ。

⑤とにかく、「受験勉強をがんばらなければならないし、よけいなことで神経を使いたくはない。  しかも、これは誰かのいたずらで、危ない目にあうこともあるかもしれない」と考えた彼女は、翌日さっそく、このことを母親につげ、つぎの日から母親に1階まで迎えにきてくれるように頼んだ。

⑥つぎの日の真夜中、いつものように、深夜12時をすぎたあたりで、ミジョンはアパートの1階に着いた。  頼んでおいたとおり母親が待ってくれている。

⑦ミジョンは、母親と連れだってエレベーターに乗りこむと、10階のボタンを押した。  どこの階にもとまることなく、エレベーターは一直線に上がっていった。  「チンッ!」エレベーターのベルが鳴り、無事ふたりは10階に着いた。

⑧「なんだ。やっぱりお母さんといっしょだと安心ね」  彼女が、ホッとした顔で母親にむかってそういったとたん!  

⑨「わたしがお母さんにみえるのかい?」』

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石原莞爾先生と大山倍達総裁

1.『Yahoo!百科事典』で石原莞爾先生について検索しました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①石原莞爾(いしはらかんじ 1889-1949)   陸軍軍人(中将)。  

②1920年に日蓮(にちれん)主義の思想団体『国柱会(こくちゅうかい)』に入会し、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を得た。

③28年に関東軍主任参謀となると、この観点から満州事変、『満州国』創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。  35年参謀本部作戦課長となり、翌年の二・二六事件の鎮圧にあたる。

④『帝国軍需工業拡充計画』など総力戦体制構想を立案したが、日中戦争が勃発(ぼっぱつ)して実現は阻まれた。  その後東条英機(とうじょうひでき)と対立して41年3月第一六師団長を罷免され、太平洋戦争中は右翼団体『東亜連盟』を指導した。』

2.『陸軍の異端児 石原莞爾』(小松茂朗著 光人社)の中に1940年暮れの満期除隊予定者に対する石原先生のあいさつがありますので抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①諸君は昭和14年(1939年)1月に入隊、基本訓練をすませて、中支に派遣中の師団に配属された。  そして短期間であったが、弾丸の飛ぶ戦場で実戦を体験した。  それから約1年半、この師団長(石原先生自身のこと)のもとで、一生懸命に訓練と諸勤務に専念した。

②師団長は決して、精鋭無比な諸君を忘れはしない。  本当によく頑張ってくれた。  その労苦に対して言葉に言い表せないほど感謝している。  ほんとうにありがとう。  それぞれ故郷に帰ったら、親御さんたちに、師団長がくれぐれもよろしくと言っていたと伝えて欲しい。

③官舎の方には、気兼ねなく遊びに来てもらってかまわん。  私と君たちの人間関係は、永遠につづくのだ。  師団長の方も個人的に、よろしくご指導のほどをお願いする。  では、みんな元気で・・・さようなら』

3.大山倍達総裁も、空手の師である寧柱(そうねいちゅう)先生を通して石原先生とは親交がありました。  

1947年5月の極東軍事裁判・酒田(山形県)臨時法廷に証人として出廷する石原先生を乗せたリヤカーを引く青年の中に、若き日の大山総裁もいたとのことです。  

先日、城西の古くからのメンバーである井出真先生から問い合わせがあったので、『大山倍達正伝』の著者である小島一志さんと塚本佳子さんに確認したところ、事実でした。

※携帯では寧柱(そうねいちゅう)先生の「(そう)」の文字が表示できないようです。

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小林茂子さん『生きてみよ』

1月30日の朝日新聞夕刊に四代目桂三木助さんの姉・小林茂子さんの記事が載っていました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①父は三代目桂三木助さん。  弟はその長男で四代目を襲名した。  明るいキャラクターで落語の枠を超えてテレビや舞台、映画にと活躍したが、うつに陥って2001年1月、自宅で首をつった。  43歳だった。

②弟のマネージャーをつとめた二つ年上の姉、小林茂子さんは、自らを責めた。  そばにいたのに、弟の病気をわかってやれなかった。  自分は何を見逃したんだろう。  答えのない自問自答を繰り返し、小林さんはとうとう自分までうつになった。  睡眠導入剤に頼り、酒に逃避した。

③死も考えた。  だが、自分には息子がいる。  自殺はできない。  事故死ならあきらめてもらえるかと、横断歩道を目をつむって渡ったこともある。

④そんな時、友人からブログを書いてみたら、と勧められた。  よし、弟が生きてきた人生を記録しよう。  何も言えずに死んだ弟に代わって、書こう。  クスリなんかに頼っている場合か!

⑤09年1月から、携帯で半生を振り返るブログを始めた。  子供だった頃の話を書くと、両親がいかに自分たちを大切にしてくれたかを思い出した。  学校に持っていったお弁当のこと、運動会に応援に来てくれたこと・・・。

⑥自分の息子がどんなに可愛かったかも思い出した。  自分がどれだけ必死に働いてきたのかも。  小林さんはこうしてゆっくりと立ち直った。

⑦立川談志さんは茂子さんの手帳に「生きてみよ、ツマラナイと思うけど」と書きつけた。  小林さんはその言葉に励まされ、ブログのタイトルにした。』

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2010年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年03月