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トップアスリート量産地

『トップアスリート量産地に学ぶ 最高の人材を見いだす技術』(ラスムス・アンカーセン著 阪急コミュニケーションズ刊)を読みました。  元サッカー選手の著者は「まえがき」で次のように書いています。  

『仕事を辞め、全財産をつぎこんで六枚の航空券を買うと、7ヵ月かけて世界各地に足を運んだ。  ファストファッションのようにトップアスリートを次々と輩出している地域・・・六つの「人材の宝庫」・・・で生活をし、自らトレーニングを行ったのである。』

本書から抜粋し、番号を付けて紹介します。  著者が言う『六つの「人材の宝庫」』とは次の①~⑥の地域のことです。

『①長距離走の世界でケニアが他を圧倒していることは周知の事実だが、国際大会でメダルを獲る選手の70%以上がカレンジ族(ケニア全人口の10%、300万人)の出身であることはあまり知られていない。  たとえば、1968年以降、オリンピックのハードル競技でカレンジ族出身の選手が金メダルを逃したのはたった一度だけだ。  (中略)  なぜ、ひとつの部族からあれだけの金メダリストが誕生し、長距離の世界記録を次々と更新しつづけているのだろうか?

②ジャマイカのキングストンに本拠を置くある陸上クラブは、ディーゼル燃料で除草したトラックで日々トレーニングしているのだが、2008年の北京オリンピックでは、所属選手がメダルを九つも獲得するという快挙を成し遂げた(うち五つは金メダル)。  しかも世界記録とオリンピック記録の更新もしてのけたのである。  この驚異の結果はどうやって生まれたのだろうか?

③韓国は寒さが厳しく、またコースの使用料金が非常に高いこともあって、ほとんどのゴルファーが逃げ出したくなるような劣悪な競技環境と言える。  それなのになぜ、世界女子プロゴルファーの上位100人の中に、韓国出身の選手が35人も入っているのか?

④エチオピアの人里離れた小さな村が、前回のオリンピックの中距離種目で金メダルを四つも獲得できたのはどうしてだろう?

⑤ことテニスについては、平凡な成績しかあげていなかったロシア人選手が、わずか数年で女子世界ランキング上位40人の25%を占めるまでになったのは、なぜなのか?

⑥2010年シーズン、ブラジルのクラブチームがいっさい参加していなかったのにもかかわらず、イギリス人選手25人、ドイツ人選手26人に対して、じつに67人ものブラジル人選手が、世界で最も権威ある国際大会、チャンピオンズ・リーグに出場しているのはなぜだろうか?』

大変参考になりました。  一読をお勧めします。

火曜日から北京です。  天気予報によると火曜日は最高気温が5度、最低気温がマイナス4度となっています。  

昨年末の香港では夜ホテルの暖房が入らず、結果として風邪を引いてしまいました。  冬の北京は外は寒いのですが、室内はどこに行っても暖かいので安心です。


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最近の新聞記事から

最近の新聞記事から抜粋し、番号を付けて紹介します。

1.朝日新聞(1月18日夕刊)・・・タレント・文筆業 大橋巨泉さん(78)のインタビュー記事

『・・・巨泉さんの金言は「押さば押せ、引かば引け」だとか

①ギャンブルではそう考えることが多い。  競馬で第1レースを勝ち、第2レースは遊びで馬券を買ったら、また取った。  それは、神様が背中を「押している」のです。  その時は、3レースも4レースも勝負(それが「押さば押せ」)。

②しかし5レースで外れたら、(神様が背中を「引っぱっている」のだから)6レースから買っちゃあ、いけない。  それが「引かば引け」です。  ところが、損をする人はみんな、今日は全部イケると思って、6レース以降もつぎ込む。  「引かば引け」は難しいのです。

③人生では「全部をほしがってはいけない」と考えます。  いい気になりすぎて、全部とろうとすると、失敗する。  だから「今回の人生では、これはやらないよ」と考えることにしているのです。

④大橋巨泉は、僕の人生の一つの駒ですから、「もうそろそろだよ、お前。  ここで引けよ」と言うもう一人の僕がいないといけないのです。』


2.朝日新聞(1月20日)・・・全国高校サッカー選手権で初優勝した鵬翔の監督 松崎博美さん(62)の関連記事

『①創部と同時に監督になって30年目。  決勝を含め、6試合中4試合でPK戦を制した。  「本当に気持ちが強い子供たち。  やればできること選手が教えてくれた」。  大会最年長監督は両手を上げて喜んだ。  (中略)

②昨年1月8日、サッカー部OBで一人息子の康博さんを34歳で亡くした。  しばらくふさぎ込んだが、1週間後に何も言わずに戻ってきた。  サッカーが支えだった。

③前回まで5大会連続で県予選敗退。  PK戦負けが2回あり、直前に主力がけがをするなど「運がなかった」。

④今回はため込んだ運が味方についたようだ。  「長くやってきたら、いいことがあります」』


3.1月19日、72歳で死去した元横綱大鵬 納谷幸喜さんの関連記事(1月20日)

①日経新聞・・・「負けない相撲」といわれた。  横綱になってからは、相手に合わせて自分の形に持ち込むような自在な取り口へと変貌を遂げていった。  「大鵬の相撲には型がない」と批判されたこともあったが、師匠の二所の関親方(もと大関佐賀の花)は「自然体という立派な型がある。  型にはまらないでどんな相撲でも取れる。  それが大鵬の非凡なところだ」と擁護した。

「稽古につぐ稽古から自然に生まれるのが私の相撲だった」。  大鵬さんはそう振り返った。  努力に努力を重ねた者にしかたどり着けない万能相撲だった。


②日経新聞「春秋」・・・横綱になってからもケガや病気に悩まされるが、再起不能説を何度も跳ね返す。  入院中も病院を抜け出し、夜の公園を走った。

むしろ大ケガの後、以前より「淡々とした相撲」を取れるようになったと喜んだ。  目の前に現れる困難や壁を常に自分の力に変えてきた。

「勝つために稽古し、努力の過程で精神面も鍛えられる。  最初から精神ができているわけではない」。  なにくそっという根性を最近の力士に感じない。  晩年の取材にそう嘆いている。


③朝日新聞・・・強さの秘密は「やせていたから」。  入門時は184.5センチ、75キロで「細い体で勝つために何でもやった」という。  横綱昇進までの5年で約60キロ増やした後も、相撲勘の鋭さや多彩な技が生き続けたのは、技を駆使して活路を切り開いた時代があったからと話していた。  同じく細身で入門して綱を張る白鵬を「似ている。  私の優勝回数を超えられる」とかわいがった。


④朝日新聞「天声人語」・・・貴乃花が土俵を降りて、きょうで10年になる。  大鵬、貴乃花、白鵬。  美しく強い綱の系譜はまだ伸びるのだろうか。  相撲を取らずとも、ただ見とれていたい力士が少なくなった。



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双葉山

週末に読んだ『寄り添う』(雨宮由未子編著 講談社ビジネスパートナーズ)という本の中で双葉山に関する記述がありました。  一橋大学大学院の楠木建教授が書かれています。  楠木教授によると専門は『競争戦略論という、競争の中で商売が成功するのはなぜか、その論理を考えるという仕事をしている』のだそうです。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」というように、双葉山定次はまさに昭和屈指の大横綱であった。  いまだに破られていない69連勝の記録は年二場所の時代、1939年に達成されている。  驚くべきことに、双葉山は足かけ4年にわたって一度も負けなかったということになる。

②若いころには、決め手に欠けるため、土俵に追いつめられることが多かった。  足腰の強さを頼りに土俵際ぎりぎりのところで逆転するので「うっちゃり双葉」と皮肉られた。

③非力と称されることもあった。  有名な決まり手の左上手投げにしても、いかなる相手でもどんな体勢にあっても投げ飛ばしてしまえるほどのものでもなかった。  あっという間に相手を土俵の外に運ぶスピードもなかった。  それでも双葉山は勝ち続けた。

④「双葉山はいつも相手より少しだけ強い」といわれていた。  どちらかというと受けて立つ取り口であったので、立ちあい直後は相手が有利にみえる相撲が少なくなかった。  しかし、相手は次第に双葉山に追いつめられ、土俵を割るか投げ飛ばされてしまう。

⑤ここに双葉山の強さの本質がある。  一撃で相手を倒す必殺技や飛び道具はない。  その点で、後年の横綱、輪島大士とは対照的だ。  輪島は右手の引きが猛烈に強く、強引に相手を仕留める左下手投げは「黄金の左」と賞賛された。

⑥輪島が「必殺技系」の横綱だとしたら、双葉山はトータリティの横綱である。  自分の重心を巧みに移動させ、相手の体勢が自ずと崩れるように仕向ける。  勢い込んで攻めてくるまさにそのときに、相手は双葉山の術中にはまる。  取り口や勝負運びも含めたトータルとしての相撲のあり方で双葉山は傑出していた。

⑦だから相手は打つ手がない。  必殺技系の力士であれば、その必殺技を封じるのが勝負のカギとなることは素人でもわかる。

⑧双葉山が勝ち続けた間、あらゆる力士が双葉山の取り口を研究した。  しかし、誰もその強さの正体を突きとめられなかった。  強いということは一目瞭然だが、なぜ強いのかは誰にもわからない。  だから双葉山は強かった。』

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松井秀樹選手

新年明けましておめでとうございます。  

1.昨年末の12月27日に松井秀樹選手が引退しました。  以下はネットで検索した記事です。

『米大リーグのニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した元巨人の松井秀喜選手が27日(日本時間28日)、ニューヨーク市内で記者会見し、現役引退を表明した。

NHKによると、松井選手は会見で「20年間に及ぶプロ野球人生に区切りをつけたい」と述べた。  引退したのは、今年のシーズンで結果が振るわなかったことが最大の理由とした。

松井選手は「ヤンキースで7年間プレーできたことは僕にとって最高の出来事だった」と語った。  巨人時代についても「野球人生にとり大きな礎になった」と述べ、「長嶋監督には感謝してもし尽せないくらいの気持ちでいっぱいだ」とコメントした。』

12月27日は私の誕生日です。  昨年はちょうど香港出張中でしたが、忘れられない誕生日となりました。


2.正月休み中に『別れる力』(伊集院静著 講談社刊)を読みました。  その中で松井選手に触れた箇所がありました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①松井秀樹君のことで、スポーツ紙は彼を欲しいという球団がないと書く。  これで引退に追い込まれるとも書く。  (中略)

②私は今回の松井選手の立場は、当人も家族も辛いかもしれないが、彼にとってはむしろ良いことかもしれないと考えている。  何事も経験である。

③彼は歳のわりには人間ができていると言われているが、私は三十八歳は、その歳なりの所にしか人としていないと思う。  甲子園のスター、巨人軍の四番、ヤンキースでワールドシリーズのMVP。  花舞台の申し子のごとき野球人生だ。

④話す機会が、時折あり、性格も、礼儀正しさも、皆一級だが、足りないものがあるとしたら、辛酸を舐めた経験が、あの骨折以外にない。  人が自分を認めてくれないというのは世間の半分以上の人が受けていることである。  それも知るほうがいい。

⑤大人の男は、辛い、酸っぱいトンネルを抜けて出てくれば、風情、かたちが良くなる。  私は時々、彼に言う。  野球だけが人生じゃない。  人生を好打できる方が百倍もイイ。』


3.小さい頃から巨人ファンでしたが松井選手がヤンキースに入団してからは朝のNHK・BS放送でヤンキースの試合を観るのが楽しみの一つとなりました。

2003年6月にオールアメリカン大会でニューヨークに行ったとき、初めてヤンキースタジアムを訪れました。  松井選手がヤンキースに入団した年で、センターを守り、初めて4番を打った日でした。  同じ日本人が名門ニューヨーク・ヤンキースの4番バッターとして打席に立っている姿を観て、とても感動したことを思い出します。

2005年7月も、シアトルのセーフィコ・フィールドでイチロー選手の試合を観た後、ニューヨークに寄って松井選手の試合を観ました。  また同年9月にもオールアメリカン大会へ行った折、ヤンキースタジアムに観に行きました。


4.選手としての松井選手を観ることができないのはちょっと寂しい気もします。  でもいつの日か指導者としての松井さんを観てみたいです。

昨日・今日と朝錬でした。  明日は6時半から総本部・鏡開きです。  

正月休みも終わっていつもの日常の始まりです。  休暇が終わるのもちょっと寂しいような(笑)。  今年もよろしくお願いいたします。


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