2013年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年10月

「空気」の研究

(1)『「空気」の研究』(山本七平著 文春文庫)を読みました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.①(前略)以前から私は、この「空気」という言葉が少々気にはなっていた。  そして気になり出すと、この言葉は一つの〝絶対的権威〟の如くに至る所に顔を出して、驚くべき力を振るっているのに気づく。

②「ああいう決定になったことに非難はあるが、当時の会議の空気では・・・」「議場のあの時の空気からいって・・・」「あのころの社会全般の空気を知らずに批判されても・・・」「あの場の空気も知らずに偉そうなことを言うな」「その場の空気は私が予想したものとは全く違っていた」等々々、至る所で人びとは、何かの最終決定者は「人でなく空気」である、と言っている。


2.①(前略)従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きているわけである。

②そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。  (中略)

③現実にはこの二つの基準は、そう截然(せつぜん・・・区別などがはっきりしているさま)と分かれていない。  ある種の論理的判断の積み重ねが空気的判断の基準を醸成していくという形で、両者は、一体となっているからである。


3.①(前略)たとえば、ある会議であることが決定される。  そして散会する。  各人は三々五々、飲み屋などに行く。  

②そこでいまの決定についての「議場の空気」がなくなって「飲み屋の空気」になった状態でのフリートーキングがはじまる。

③しして「あの場の空気では、ああ言わざるを得なかったのだが、あの決定はちょっとネー・・・」といったことが「飲み屋の空気」で言われることになり、そこで出る結論はまた全く別のものになる。』


(2)ここ数年「空気が読めない」ことをKYと呼ぶようになりました。  ネットで『知恵蔵2013』を検索・抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①K=「空気」、Y=「読めない」で、「空気が読めない」という意味である。

②2006年ころから女子高生言葉として使われ、07年夏の参院選で大敗したのにすぐに辞めなかった安倍内閣を「KY内閣」と評したことで一般的流行語となった。

③現代においては「場の空気」を瞬時に読み取る状況判断能力が重要視されることを物語っているが、過度になると「主体性を喪失し周囲に迎合する」こととなり、これも問題である。  ある意味、集団同調圧力が強い日本社会ならではの問題かもしれない。

④ちなみに、1977年に評論家の山本七平が著した『「空気」の研究』は、日本人論として、上述の意味の「空気」を分析した書である。
( 稲増龍夫 法政大学教授) 』


現在の(第二次)安倍内閣は昨年の衆議院議員総選挙(12月16日)、今年の参議院議員選挙(7月21日)、五輪招致成功(9月7日)、イプシロン打ち上げ成功(9月14日)と絶好調です。

『07年夏の参院選で大敗したのにすぐに辞めなかった安倍内閣を「KY内閣」と評した』時があったなんて(笑)

明後日から煙台と威海に行きます。

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広田弘毅

1.先日、川島智太郎と広田弘毅(ひろたこうき)の『風車(かざぐるま) 風が吹くまで昼寝かな』という句について話をしました。


2.広田弘毅について「Yahoo!百科事典」から検索・抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①広田弘毅(1878~1948)  福岡県に生まれる。  生家は貧しい石屋。  東京帝国大学法科卒業後、外務省に入り、欧州局長、オランダ公使を務め、1930年・駐ソ大使となった。

②1933年・斎藤実(さいとうまこと)内閣の外相、1935年・岡田啓介(おかだけいすけ)内閣の外相。

③1936年の二・二六事件後、首相となり広田内閣を組織した。  1937年・第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相。  1938年、外交転換のため更迭された。

④敗戦後A級戦犯容疑者とされ、1948年11月・極東国際軍事裁判で文官中ただ1人絞首刑の判決を受けた。  1948年12月23日刑死。』


3.『「生き地獄」脱出法』(向谷匡史著 東邦出版)に広田弘毅についての記述があったので抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①(前略)  話を外交官時代にもどす。  いずれは外務大臣と将来を嘱望されていた広田は1927年、突如としてオランダ公使として海外に出される。  当時、日本とオランダは通商が結ばれておらず、これはあきらかに左遷であった。  (中略)

②「なぜ、俺が!」と広田には無念の思いもあったろうが、それを口に出してはいない。  我が身を風車に見立て、心境をこんな一句に残してオランダへ赴任していく。  「風車 風が吹くまで昼寝かな」

③どんなに努力しようとも、風が吹かなければ風車は決して回ることはない。  だからヤケになったり、焦燥したりするのは愚かなことで、昼寝でもしながら風が吹き始めるのを待つがよい・・・という意味だ。  (中略)

④やがて風車は回り出す。  3年後の1930年、駐ソ大使を務め、1933年9月、斉藤内閣の外相に就任。  さらに外相を務めたのち総理大臣になる。』


徐々に涼しくなってきました。  明日は城西カップ(同日の昇級審査会は山辺師範代に任せます)、明後日は墓参りです。

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テニス・スペイン強さの秘密

(1)今朝の朝日新聞・別紙『GLOBE』にスペインのテニスに関する記事が載っていました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.男子プロテニス界で、スペインの強さが際立っている。  日本人は1人しかいない世界ランキング20位以内に、国別で最多の4選手が名を連ねる。  今年は全米オープンと全仏でナダルが優勝。


2.①スペイン東部バレンシア。  6月の全仏で準優勝した、世界第4位のフェレールの練習拠点「テニスバル」がある。

②スペインやロシアをはじめ世界各国から集まる約40人が連日午前9時から、球を打つ。  筋力トレーニングも含めた練習は1日6~7時間。

③コーチのアルバリーニョ(55)は「特別なことは必要ない。  球をたくさん打ち、努力すること。  親身になって教えるコーチがいること。  そして、クレー(赤土)のコートで練習することが大切」と話す。

④クレーコートは、アスファルトと樹脂を使ったハードコートや芝のコートに比べ、バウンドした後の球足が遅い。  そのため、ポイントが簡単には決まらずラリーは長くなる。  球の弾み方は変わりやすい。

⑤「クレーでは長いラリーを続けながら、どう攻めるか戦術を考えねばならない。  粘りや忍耐力が身につく。  (世界第4位の)フェレールの技術は完ぺきではない。  でも、忍耐強く走れる」(アルバリーニョ)  クレーで練習することで、自然と体力がつき、精神力も鍛えられるのだ。

⑥トッププロの大会になると、北米で主流のハードコートが使われるが、クレーは少ない。


3.①元全日本王者でデビス杯日本代表コーチの増田健太郎(42)は27歳の時、国内大会の副賞でバルセロナのサンチェス・カサルアカデミーへ体験入学した。  初日の練習に衝撃を受けたという。

②バケツいっぱいの球を、ポジションを変えながら、打ち続ける。  常に足を動かし、正しい打点で、コースを変えながら打つ。  100球打つメニューもあった。

③「球を打つ量は、日本の3倍。  走る量もずっと多い。  土のクレーコートは疲労が違う。  スペインの強さの理由は、才能や体格ではなかった」と振り返る。  1ヵ月の滞在予定だったが、自腹で6年余りスペインに残った。


4.①日本代表監督の増田実(56)は10年前、スペインへ渡った。  増田健太郎と同じアカデミーで2年余り、育成のノウハウを学んだ。

②「厳しい練習中でも明るさと笑いがあった。  スペインには、ハードな練習を自分に課す価値観と、好きなことに誰の目も気にせず打ちこめる文化がある」と精神力の強さを挙げる。』

そう言えば、昨年の極真全日本チャンピオン、アレハンドロ・ナヴァロ選手もスペイン出身でした。  


(2)病気の重い患者に、主治医は聞いた。  「誰か、呼んでほしい人はいるかね」
 
患者は苦しい息で答えた。  「別の医者を」

(本郷孔洋先生のメルマガより)


今日は昼ごろ外出します。  台風大丈夫かな~?

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創意工夫

1.私が選手指導で一番強調するのは『創意工夫』の大切さです。  1978年に東京城西支部を開設して以来の一貫したコンセプトです。

2.『創意工夫』という点で大変尊敬している人が第一次南極越冬隊長の西堀栄三郎さん(1903~1989)です。   西堀さんがかって書かれた『石橋を叩けば渡れない』という本の中に南極での「雪上車のエピソード」が取り上げられていました。

同書が手元にないのでネットで検索したら佐藤直曉さんの『リーダーの人間行動学ブログ』にそのエピソードが出ていました。  抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①西堀隊長を含めた何名かの探検チームが、初めて南極大陸で遠出したとき、雪上車が突然止まってしまうという事故が起きました。

②雪上車にはカタピラーという装置がついています。  カタピラーとは、戦車やブルドーザーなどについているもので、車輪全体に鋼鉄の板を帯状につなげて取りつけられているものです。

③このカタピラーには、スプロケットという、いぼいぼのある大きな歯車のようなものがつけられていて、これがギリギリ回ることでカタピラーは動きます。

④故障した雪上車を調べてみると、スプロケットがシャフトから抜け出して、カタピラーがはずれかかっていました。  ナット(止めネジ)がどこかで抜け落ちて、スプロケットがはずれそうになっていたのです。

⑤引き返そうという隊員もいましたが、西堀隊長はあきらめませんでした。  ナットの代わりはないかと考えていると、折よく、ひとまわり大きな袋ナットが見つかったのです。

⑥それをシャフトに差し込んでみると、案の定ガボガボです。  しかし、内側に肉盛りすればきっちりはまりそうです。  幸いトーチバーナーとハンダがあったし、手頃なドライバーも見つかりました。

⑦西堀隊長は、袋ナットのなかにドライバーの柄を入れ、その隙間にハンダを溶かして落としていきました。  そうしてからドライバーを引き抜くと、円錐形のネジ穴をしているナットらしきものが出来上がりました。

⑧これを丸太棒を使って無理やりシャフトへねじ込んでスプロケットをはめ、最後にカタピラーをはめ込んだのです。  こうして、問題は解決し、一同一安心。

⑨「やれやれ、紅茶でも飲もうや」ということになったのですが、西堀隊長は、ナットが緩むのではないかと、内心では心配だったようです。

⑩温かい紅茶が運ばれてきたとき、西堀隊長はまたまた閃きました。  お茶を飲んだあとには、コッフェル(山登りに使う携帯用の小鍋)の中に紅茶の葉っぱが残りますが、そこに雪を放り込んで、シャーベット状のお粥のようなものを、隊長は作ったのです。  そして、それを凍らないうちに、ナットのところにベチャベチャ塗りつけました。

⑪南極の零下二十何度という気温下では、水はたちまちのうちに凍り、強力な接着剤になります。これでナットはシャフトに堅く固定されました。』


3.同ブログにはピンチの時の精神的な対応についても次のように書かれてれています。

『①日本人にとって初めての南極越冬は、まさしく命懸けの事業でした。  西堀さんは南極越冬中に幾度も生命の危機に遭遇しています。  しかし、その都度、持ち前の危機を乗り切る直観力で、ピンチを切り抜けました。

②西堀さんは、ピンチのとき、「平静でありさえすれば、どうすればいいかということが、自動的に心に浮かんでくる」と言っています。  要するに「あわてふためかない」ということなのですが、ではどうすればそういう心境でいられるかといえば、「思いもよらないことが必ず起こる」と覚悟していればよいのだそうです。  そして、その覚悟はどこからくるかといえば、「準備というものは不完全なものなり」と思うことからだというのです。』

私も試合に出る選手に「試合中には予期しなかったこと・・・弱いと思っていた相手が意外に強かった、予期しない攻撃をもらったetc・・・が必ず起こるから、その時はそれも当然のことだと思って焦らないこと」という話をよくします。


4.スケジュール帳を見たら日曜日まるまる休めるのは7月7日以来です。  最近疲れ気味なのはそのせいかな~?  でもやっぱり年のせいかも(笑)

2020年のオリンピック開催地が東京に決まりました。  1964年のときは父親の仕事の関係で九州・佐賀県にいたのでテレビで見るしかありませんでした。  楽しみです。

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