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(18)昭和56年  東京都下・城西支部誕生

1.昭和56年5月、第4回首都圏交流試合が行われました。  大賀が前年12月の第3回に続き、連覇を果たします。

2.8月27日、大山総裁から東京都下(東京都の23区以外)の支部長認可をいただきました。  それ以降、「城西」の正式名称は「東京都下・城西支部」となります。

 以前は、添野義二師範が「都下・埼玉支部」として支部長を務められていましたが、極真会館を離れ士道館を興されました。  そこで、埼玉県南支部長だった盧山初雄師範が埼玉県支部長になり、私が東京都下を管轄することになったのです。

 都下の第1号道場は立川市でスタートしました。  立川市柴崎町の諏訪神社境内にある、立川市錬成館を週に2~3回借りてスタートしました。  横浜東支部長の青木や、城西世田谷東支部・分支部長の真銅が入会します。

3.前年の第12回全日本大会に出場後、私は現役を引退するつもりでした(実際は第14回大会にも出場するのですが)。  というのは、昭和56年の11月に公認会計士第三次試験を控えていたからです。  公認会計士試験は第二次試験終了後、1年間の実務補習、2年間の業務補助を経て、第三次試験の受験資格が得られます。  私は昭和53年の第二次試験に合格したので、昭和56年が初めての第三次試験受験となります。

4.昭和56年後半は東京都下・城西支部の誕生、立川道場のスタートを除けば、次のように不本意なことが続きました。

①当時、大西や大賀に続く選手候補の茶帯が3人いました。  3人とも、高校生や大学生の10代で、体重が90キロぐらいあり、大変期待していました。  ところが、ある時期を境に稽古に来なくなり、結局、退会します。

 大山総裁にお目にかかったときに、その話をすると、「素質がある生徒がやめても、また素質がある人間が入会してくる」と言われました。  長い指導経験を踏まえておっしゃったのでしょうが、当時の私には慰めにしか聞こえませんでした。  しかし、翌年以降、小笠原、黒澤、増田などが移籍してきたので、実際、総裁の言われた通りになります。

②11月1日に行われた、第5回首都圏交流試合ではベスト4に城西の選手が1人も入れませんでした。  先ほどの3人の退会が悔やまれました。

③11月14・15日の第13回全日本大会には大西、大賀、鴨志田の3人が出場しましたが、全員、初日敗退します。

 特に大西は、前年、初出場ながら第2回世界大会8位入賞の川畑幸一選手(現、近畿本部長)に判定で勝ち、3回戦進出を果たしていただけに期待されていました。  2回戦で、また川畑選手と当たりましたが、今度は判定負けします。

 よい週末を。

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