2008.10.10 Fri
(32)昭和59年 前半のニュース
第3回世界大会終了後、昭和59年前半のニュースです。
①増田章が移籍入会・・・私が増田を初めて見たのは、昭和55年6月、第2回首都圏交流試合です。 石川支部から出場した増田は、高校生離れした組手で、3位に入賞しました。 増田の全日本デビューは、昭和56年の第13回大会で、2回戦で前年のチャンピオン三瓶選手と当たり、延長3回、惜敗します。
その後は、第14回大会8位、第15回大会5位、第3回世界大会ベスト16と成績を残し、松井館長とともに、将来のチャンピオン候補と目されていました。
昭和59年春、東京の写真専門学校に入学したのを機に、城西に移籍してきます。
②大賀雅裕が第1回全日本ウェイト制大会軽量級で優勝、中江辰美が準優勝・・・4月、大阪で第1回のウェイト制大会が開催されます。
大山倍達総裁は、スポーツであるボクシングなどと違い、武道である空手の試合は、体重無差別で行われるべきだ、と常々言われていました。
一方で、空手をオリンピック競技に入れたい、という長年の夢を持たれていました。 結局、世界各国の国際オリンピック委員(IOC)の賛同を得るには、体重別の試合もやむなし、との考えから、ウェイト制大会が開催されたわけです。
軽量級(70キロ未満)、中量級(80キロ未満)、重量級(80キロ以上)の3階級で行われました。 48名が参加した軽量級には、城西から大賀と中江が出場します。 前年、第15回全日本大会決勝の大西・小笠原戦の再現のように、両者決勝まで勝ちあがり、判定で大賀が優勝します。
③黒澤浩樹が第10回首都圏交流試合で優勝・・・7月28日のブログで書きましたが、昭和58年4月の第8回交流試合に負けたことがきっかけで、黒澤は城西に移籍してきました。
移籍後の昭和58年秋、支部内の試合に出場し、準決勝で先輩の小笠原には負けたものの、第3位に入賞しています。 しかし、他支部の選手も多数出場する交流試合は、黒澤にとって、1年間城西で稽古してきた成果を試す機会であると同時に、前年の雪辱戦でもありました。
黒澤は、勝ち進むほどに調子を上げ、3回戦から決勝までの3試合は、すべて1本勝ちします。 特に、下段回し蹴りの威力には、目を見張るものがありました。
秋の3連休です。
秋といえば、スポーツの秋、芸術の秋、食欲の秋、読書の秋、と色々あります。
そろそろ、熱燗もいい季節ですね。
よい週末を!
①増田章が移籍入会・・・私が増田を初めて見たのは、昭和55年6月、第2回首都圏交流試合です。 石川支部から出場した増田は、高校生離れした組手で、3位に入賞しました。 増田の全日本デビューは、昭和56年の第13回大会で、2回戦で前年のチャンピオン三瓶選手と当たり、延長3回、惜敗します。
その後は、第14回大会8位、第15回大会5位、第3回世界大会ベスト16と成績を残し、松井館長とともに、将来のチャンピオン候補と目されていました。
昭和59年春、東京の写真専門学校に入学したのを機に、城西に移籍してきます。
②大賀雅裕が第1回全日本ウェイト制大会軽量級で優勝、中江辰美が準優勝・・・4月、大阪で第1回のウェイト制大会が開催されます。
大山倍達総裁は、スポーツであるボクシングなどと違い、武道である空手の試合は、体重無差別で行われるべきだ、と常々言われていました。
一方で、空手をオリンピック競技に入れたい、という長年の夢を持たれていました。 結局、世界各国の国際オリンピック委員(IOC)の賛同を得るには、体重別の試合もやむなし、との考えから、ウェイト制大会が開催されたわけです。
軽量級(70キロ未満)、中量級(80キロ未満)、重量級(80キロ以上)の3階級で行われました。 48名が参加した軽量級には、城西から大賀と中江が出場します。 前年、第15回全日本大会決勝の大西・小笠原戦の再現のように、両者決勝まで勝ちあがり、判定で大賀が優勝します。
③黒澤浩樹が第10回首都圏交流試合で優勝・・・7月28日のブログで書きましたが、昭和58年4月の第8回交流試合に負けたことがきっかけで、黒澤は城西に移籍してきました。
移籍後の昭和58年秋、支部内の試合に出場し、準決勝で先輩の小笠原には負けたものの、第3位に入賞しています。 しかし、他支部の選手も多数出場する交流試合は、黒澤にとって、1年間城西で稽古してきた成果を試す機会であると同時に、前年の雪辱戦でもありました。
黒澤は、勝ち進むほどに調子を上げ、3回戦から決勝までの3試合は、すべて1本勝ちします。 特に、下段回し蹴りの威力には、目を見張るものがありました。
秋の3連休です。
秋といえば、スポーツの秋、芸術の秋、食欲の秋、読書の秋、と色々あります。
そろそろ、熱燗もいい季節ですね。
よい週末を!