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(66) 1999年~ 三峯神社夏合宿

明日・明後日は秩父の三峯神社で夏合宿です。  私が入門した1971(昭和46)年にはすでに恒例の総本部冬合宿が三峯神社で行なわれていました。  東京城西支部として三峯神社で夏合宿を行なうようになったのは1999(平成11)年からです。  三峯神社のホームページの『ご祭神・由緒』の項から抜粋し、番号を付けて紹介します。

『①景行(けいこう)天皇の時代・・・由緒は古く、景行(けいこう)天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)を東国に遣わされた折、尊(みこと)は甲斐国(山梨)から上野(こうずけ)国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中、当山に登られました。

尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀り(まつり・・・神としてあがめ、一定の場所に安置する)になり、この国が永遠に平和であることを祈られました。  これが当社の創まりであります。

その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸(じゅんこう・・・天皇が各地をまわること)された時、上総(かずさ)国(千葉)で、当山が三山(雲取山・白岩山・妙法嶽の三つの山)高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社(やしろ)には「三峯宮」の称号をたまわりました。

②文武(もんむ)天皇(在位697~707年)の時代・・・修験(しゅげん・・・山林に修行し、密教的な儀礼を行い、霊験を感得しようとする宗教)の祖・役の小角(えんのおづの)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。  この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。

③聖武(しょうむ)天皇(在位724~749年)の時代・・・国中に悪病が流行しました。  天皇は諸国の神社に病気の平癒(へいゆ・・・病気が治ること)を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。  (中略)

④淳和(じゅんな)天皇(在位823~833年)の時代・・・勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。

⑤こうして徐々に仏教色を増し、神仏習合(しんぶつしゅうごう・・・日本古来の神と、外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。  すでに奈良時代から寺院に神がまつられたり、神社に神宮寺が建てられたりした。)のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。   (中略)

⑥後村上(ごむらかみ)天皇(在位1339~1368年)の時代・・・東国武士を中心に篤(あつ)い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、1352(正平7)年、新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。

⑦後柏原(ごかしわばら)天皇(在位1500~1526年)の時代・・・1503(文亀2)年にいたり、修験者・月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。

⑧後奈良(ごなら)天皇(在位1526~1557年)の時代・・・1533(天文2)年、山主は京に上り聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。  以来、『天台』修験の関東総本山となり『観音院高雲寺』と称しました。

⑨更に、観音院第七世の山主が京都花山院(かざんいん)宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇れました。  現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。

⑩1720(享保5)年、日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。  (中略)

⑪以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講(こう・・・名山・霊場に参詣するための団体)を組織し三峯山の名は全国に知られました。  

⑫その後明治の神仏分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。』

よい週末を。

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