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田中利典さん『修験道と現代』その2

3月5日のブログで紹介した金峯山修験本宗宗務総長・田中利典さんのインタビュー記事(3月4日・日経新聞夕刊)からの後編です。

『①修験道(しゅげんどう)の修行とは、山で自然と向き合い、己の体を使って超自然的な力、霊的な力を感得する、ということです。  得られる力を験力(げんりき)といいます。  そのための方法論が修験なのです。  だから『教』ではなく『道』であり、山伏にはお坊さんも神官も、もちろんアマチュアの方もいる。

②昔の山伏は山に入りっ放しだったのでしょう。  今では修行は非日常であり、非日常で得た力を日常に生かす、それが修験です。  山を歩けばその人なりに何かがつかめる。  道中を行ずる、その過程に最も大きな意味があって、ただ目的地に着くために歩いているわけではありません。

③(修行で得られるものとは)我を解き放つ、ということです。  自分の都合通りにならないと理不尽だと思う。  かといって、世界は自分の思うようにはならないものだと頭で考えていても心に刻まれません。

④自然の中で体を酷使して聖なるものに触れる。  その体験によって、我を捨てるという意味を心に刻むことができます。  我にとらわれなければ、理不尽だという思いもなくなる。  昨日をくよくよし明日を心配する。  そんな自分を超えたものと対峙(たいじ)することで、心は本当に楽になります。

⑤(人口3500万人だった明治初年の日本に、修験者が17万人いた。)  修験では『山の行(ぎょう)より里の行』とよく言います。  二つの意味があって、一つは山の修行を日常で生かすということ。  もう一つは、本当に困難なのは日常の生活なんだ、ということです。  その日常が我執にがんじがらめになっている。

⑥日本人が古くから持っていたものがいかに大切か、気づかなければならない。  私たちは自分の外にあるさまざまなものを畏れ、宗教的な価値を見いだしてきた。  今は習慣に残っていることの意味を忘れていますが、まだ間に合う。  思い出せる。

⑦自分も山の修行に行っていなければいやな坊さんになっていたと思う。  山修行は大嫌いでしたが、山中を歩く中で自分に届いてくることはおのずから違います。  仏教も近代合理主義に染まって、頭の中でのみ考える傾向がありましたから。』

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