PREV | PAGE-SELECT | NEXT

道場開き

今日は午後2時から、鈴木雄三君の埼玉県志木支部・道場開きです。  30歳という若い支部長の誕生です。  

私自身の道場オープンを思い出しました。  過去のブログから抜粋し、番号を付けて紹介します。

『1.①昭和53年1月26日、大山総裁から東京城西支部長の認可をいただきました。

②すぐにでも「道場スタ-ト」となるべきなのでしょうが、私の場合は違っていました。  というのは、国家試験が控えていたからです。  とりあえず7月の試験に向けての勉強、そのあと道場の準備ということにしました。

③受験が終わり、8月から道場オープンに向けて、準備開始です。  まず、場所の確保です。  親のすねかじりで、貯金などあるわけもありません。  公共施設のように、時間貸しをしてもらえるところを、探さなければなりません。  いろいろ歩いてみたのですが、公共施設もすでに他の団体でいっぱいだったりして、なかなか見つかりませんでした。

④結局、小田急線の参宮橋にある「国立オリンピック記念青少年総合センター」の地下の体育スペースを、土・日・月曜日の夜、貸していただけるようになりました。  「国立オリンピック記念青少年総合センター」は1964年の東京オリンピックの選手村のあとです。

⑤地下のスペースの半分を借りるのですが、残りの半分ではレスリングやアクションクラブ、体操の団体などが練習していました。  また、床がピータイルで汗で滑りやすく、体操のマットを並べてその上で稽古しました。

⑥最初はポスターの印刷が間に合わず、入会者もいません。  受験勉強仲間がおもしろがって稽古に参加してくれていました。

2.①昭和54年末までに227人の入会があり、茶帯も10人を超え、大西靖人という黒帯指導員も誕生しました。  しかし、稽古は相変わらず、小田急線参宮橋の「国立オリンピック記念青少年総合センター」で土・日・月曜日の夜行っていました。  

②また、平日の稽古スペースの確保のため、昭和53年秋より小田急線南新宿駅近くの代々木小学校の体育館を週に1度借りていました。  学校行事が優先されるため、曜日は一定ではありません。

③そうは言っても、いつまでもジプシー道場を続けるわけにはいきません。  生徒の全日本大会出場もそう遠いことではなくなったので、常時稽古できる常設道場の確保が必要になっていました。  また、生徒からの会費収入もある程度の額になってきたので、月ぎめ家賃の負担にも耐えられるめども立ってきました。

④当時の東京では、月ぎめで賃借する空手の道場がほとんどありません。  イメージが良くないのか、 ビルの持ち主に「空手の道場」というと嫌がられました。

⑤当時の会員で友人でもあった伊藤さんに手伝ってもらって、城西地区の物件を見て回りました。  なかなかなかったのですが、代田橋の大原交差点近くの「大原ビル」の地下に、倉庫スペースを偶然見つけました。  17坪で、家賃が共益費込みで15万円程度だったと思います。

⑥後から分かったのですが、地下で換気が悪く、おまけに地下の浄化槽から蚊が大量発生します。  狭い・臭い・蚊が多いと、稽古スペースとしては最悪に近い環境でした。  でも、後にその道場から、大西・黒澤・増田と3人の全日本チャンピオンが誕生します。

⑦時間借りではない常設の道場で、いつでもサンドバックを蹴られるようになったことがとても嬉しかったことを思い出します。  手作りの道場で、壁のペンキは、過去にバイトで経験があった大西が塗りました。』

結局、道場開きといったことはやらずじまいです。  ないないづくしで、若さ(24歳)と情熱だけのスタートでした。  自分ではちょっと前のできごとに感じるのですが、あれから36年も経ったんですね(笑)

いずれにしても、ユーゾー、おめでと~!

TOP↑

PREV | PAGE-SELECT | NEXT